
写真は、宮城県石巻市、日和山から太平洋方面を眺めた風景です。
今は、震災復興公園として緑地整備されていますが、震災前、ここには民家がびっしりと建っていました。多くの人々の生活の場だったのです。
私は、東日本大震災の被災者ですが、物理的な被害はありません。揺れで本棚が倒れたくらいで、津波・火災などの被害はありませんし、親族に犠牲者はいません。そういう意味で、被災者と自称することには抵抗があります。
同僚や知人には、生き残ったのは自分だけとか、家族を残して本人だけがとか、半年以上体育館で避難生活をしたとか(体育館から出勤・通学)、まだ行方不明とかがあって、これが被災者。私は「経験者」くらいが適切な表現。
しかし、県外の方からすれば「被災レベルの差異」はわかりにくいです。私は、県外的には被災者ですが、県内的には経験者に過ぎません。でも「被災者でひとくくり」になることの方が多いわけで、そのたびに違和感・罪悪感を抱きます。
また、東北出身ではない私は、地元の人とはやや異なる価値観・立場を求められることになります。具体的には、「被災者・被災地への直接支援」よりも、「東京への情報提供・支援要請・兵站業務」になります。兵站業務・後方支援などの「間接支援」になるのですが、この業務、人間の嫌な部分をたくさん見ることになります。
たとえばですが、現地と東京との温度差は仕方がないです。ただ、温度差は東京出身の私にはわかる・想定できる範囲です。説明すればわかってもらえるのです。
問題は、震災ビジネスで儲けようとする団体・震災で功名心を高めようとする個人ですね。復興事業は「公金が大量に投入」されます。つまり「公金ビジネスのプロ」からすれば、これほど規模大きく、建前が立派で、審査が通りやすい事業は他にないです。そもそも役所が混乱していて、かつ支援は急を要するという状況があり、そこに全国から支援希望が殺到する…この交通整理は究極の「感情労働」でした。
この感情労働に耐えられたのは、転勤でやってきた東北が好きになり、ここに定住して老後を暮らそう、根無し草生活を終わりにしようと考え不動産まで購入していたから。つまり、ここで一生を送る気持ちになっていたのですね。その気持ちは、震災を経験して逆に強くなったと言えます。
しかし2年後、東京への転勤指令が出ます。ま、これは想定内でした。
ここで東京勤務を2~3年しておけば、東北に戻って定年まで居座ることが可能。
そう思っていたのですが、詳しく聞くと、この転勤は「沖縄勤務」のために一度東京に戻るもの。東京~沖縄となると東北に戻ることは難しい…。ここで私の心はかなり折れました。東京への情報提供や兵站業務が評価されたということなのですが、であれば「東北固定」という希望を叶えて欲しいのですが、これも東京と現地の温度差なのかもですね…。
という古い、かつ個人的なことをつらつらと書いて申し訳ないです。
ただ、久しぶりに石巻周辺を巡って、いろいろ思うこと、思い出すことが多いです。
蓋が開いてしまったようで、今日はこれから少し落ち着こうと思います。