55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

今日で13年が経過しました(震災の記憶)

 

 13年前の今頃は、出勤途中だったと思います。

 この後、大きな地震が来ることも、津波が来ることも、そして、少し遅い昼食であったとんかつ弁当以降、しばらく食べ物が手に入らなくなることも気づいていません。

 普段は地下鉄通勤なのですが、たまたまその日は出張の可能性があって自家用車で出勤していました。その日の夜、沿岸部から避難してくる車が多く、停電で信号などが稼働していない状況でもあり、各所で渋滞があって仙台市内から外に出ることは難しかったです。

 気仙沼が燃えているとか、海岸線に200名くらいの人が…という情報が入っても動きようがないんですね。深夜市内を巡回して、たまたま営業していたガソリンスタンドがあってそこで満タンにしました。上司に、では石巻方面に行ってくれないかと頼まれたのはその夜のこと。公用車も含め、ガソリンが入っていたのが私の自家用車だけだったんですね。

 

 石巻に行くと、主要な道だけは整備されていました。

 地元の建設業の方々が、震災の日の夜、重機で道路の瓦礫だけはどけてくれていたんです。12日の朝、報道が被災地の映像を流しましたが、その中には「道路」が見えていたものが多いです。これは、夜から朝にかけて地元の方が作業してくれたもの。これが、避難・支援の導線となりました。

 

 震災の現場とそれ以外の場所とで、災害についての捉え方・感じ方が違うのは当然で、だからこそ対話と相互理解とが重要だと思っています。

 被災現場にいると、それこそ電気も電波もないので何が起きているのかがよくわからないことが多いです。情報としては被災地ではない地域の人の方が詳しいと言えるでしょう。また、被災地にいると正常な感覚がマヒすることもあります。そうじゃないとあの非日常の中で過ごすことは難しいんですね。そのためか、日常生活が戻っても、「震災の時どうでした、だいじょうぶでしたか」と聞かれても返答できないことが多いです。「震災を消化し、言語化すること」って、当事者は結構難しいのです。

 また、宮城県在住と自己紹介しただけで「被災者だからって偉そうにするな」と言われたことも少なくないです。

 

 震災の時、「もう東北を離れることはできなくなったな」という思いが自然に浮かびました。東北の復興のために働かないといけないということ。私は東京出身でしたから、公私ともにリエゾン担当としていろいろ動くことも多かったです。

 ただ、結局転勤で東北を離れることになり、今は信州松本で暮らしています。

 現場を離れ、時間が経過してわかるのは、震災で自分の思考や感覚が「混乱」していたこと。混乱していたことに気づいた今は、意識的に「修正」を進めています。

 

 東北の後は沖縄で勤務しました。そこには、まだ戦争の記憶が残っていました。

 沖縄戦についての温度差もありますが、戦争と言う行為についての混乱がまだ残っていて、当事者が言語化できないという苦しみを感じました。それは、震災と重なる部分ではないかと思っています(個人の感想です)。

 

 今は東北から離れた場所で暮らしています。

 そこで、混乱の修正と言語化とを進めていこうと思います。