55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

戦争について語ること

 父に戦場経験はありません。農村の出身なので、戦争中でも白い米を食べていたらしいです。母は、神戸在住で空襲を経験しています。火垂るの墓に描かれた世界の実体験ですね。

 ただ、あまり戦争について語ることはありませんでした。

 

 就職して1年目の冬、東京に雪が降り、私は朝の雪かきに参加しました。雪の下にある氷を割っていると、とあるベテラン社員が「シベリアではもう地面がカチカチでね」とぼそっとつぶやきました。

 のちに伺うと、東大在学中に召集され、明治神宮外苑での学徒出陣壮行会に参加し、関東軍の士官として満州に派遣されてシベリア抑留。その後、帰国船に乗り込み舞鶴に上陸した…という、山崎豊子の小説そのままの体験をされていました。

 他にも、陸軍幼年学校から士官となって中国に派遣され、そこで終戦。そのまま、朝鮮半島を徒歩で縦断し、釜山から船に乗って帰国とか、そういう方がまだいらっしゃいました。

 

 東日本大震災を現地で経験し、私より上の世代が、戦争のことを語りたがらなかった理由がなんとなくわかりました。

 

 一つは罪悪感。

 生き残ってしまったことに、罪悪感があるのです。これは、時間が経過するにつれて大きくなります。直後に現地に入り、いろいろ見てしまった程度の私でもそうです。 

 津波から走って逃げる、泳いで助かる、街や自宅がなくなっていくのを見た方の口は、さらに重くなると思います。

 

 もう一つは、当事者が背負うもの。

 自分が震災時に仙台勤務だったことは、自然と広がってしまいます。

 教育現場の防災、原発避難区出身者の県外避難生活ケアなどの業務があると、呼ばれるんですね。ミーティングが終わると、「大丈夫だったの?」という枕詞に引き続き、私自身の被災状況や、現地の様子などを、結構根掘り葉掘り聞かれます。

 私は、自分の被害状況を伝え、現地の様子についての質問に答え、支援への感謝を述べます。しんどいのは、その後です。

 

 当時、仙台市街地で暮らし、勤務していたので、私自身に津波の被害はありません。

 すると、がっかりされるのです。

 でも、被災するとお金貰えるんでしょと言われたこともあります。

 原発避難区からの避難されている方に関する誤解を解くことも大変です。

 仕事でもないのに「説明責任」を求められるんですね。

 

 一方で、初対面の方に一言で切り捨てられることも少なくありません。

 「被災者だからって、偉そうにするんじゃねーぞ」

 

 戦争ついて、多くの人が口をつぐんでしまった理由が、なんとなくわかります。

 そもそも、自分でも未消化な体験を言語化する難しさがあり、それを言葉にしようとすると罪悪感が蘇り、伝えようとすると断罪される。

 

 ただ、やはり伝えていく必要はあると思います。

 戦争・震災・新型コロナ・東京五輪…。

 これだけのことですら、私たちは同じ過ちを繰り返している部分があるように感じます。ですから、やっぱり伝えていかないといけないんですね。

 でも、それを語る事、伝えることは、とても難しく、勇気も必要で、しかしその準備を進めているうちに時間が過ぎ、忘れられていくのです。

 

 さて、どうしたらいいのでしょうね。

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