「多数決が正しい結論を導くとは限らない」と思うようになったのは、公務員に転職してしばらくしてから。まだ30代前半の頃です。
ただ、世間一般の認識は「多数決=民主主義」です。「多数決って機能していないこともありますよね」と言うと(それも公務員が)、それはそれは風当たりが強かったです。
多数決が「合意形成」として機能するならばよいのです。
ただ、多数決の現実は「集団を分断すること」が多いです。そもそも「少数意見の尊重」という但し書きがついていることが、多数決の不完全性をあらわしています。多数決は完璧でも万能でもないのです。しかし、多数決による決定事項には従うことが求められます。多数決による決定に従わない場合、処罰の対象になることもあります。
多数決が「数の暴力」と化し、多数決に合意しない奴は「排除」となると、それは民主主義なのか…ですね。となると、問いは「民主主義とは何か」に派生し、近代社会・市民社会・自由社会についての理解と見識が必要になります。
ちなみに、多数決がその本質を喪失し「数の暴力」なった組織からは「自浄作用」が失われることが多いです。
そんなこんながありまして、自分の裁量の及ぶ範囲内限定ですが、多数決での決定をできるだけ回避しました。「アンケート・言語化されていない意見の可視化」の方法としては多数決・投票も使いましたが、それを結論にはしないということ。
ただ、「話し合いによる合意形成」は時間がかかります。
もちろん、合意形成には時間をかけることが大切ですが、それにも限度があります。
時間的制約もありますし、何よりも参加者が「飽きてしまう」のはよろしくありません。
そこで、合意形成のスキルやファシリテーションを勉強するってことになります。
ここまでくると、徐々に「封建的価値観」から距離を置けるようになります。
すると、かつては「親近感や愛情を示す言動」だったものが「ハラスメント」であることや、トップが先頭に立つというリーダーシップ像を求める人は、「依存性の強い人」に過ぎないことなどが見えてきます。
個人とか、自分の頭で考えることの大切さが近代なんだなってことが朧げにわかってきて、高校時代に読んだ「であることとすること(丸山真男)」という評論を思い出して読み直しました。やっとですけど、少し意味が分かったような気がしたのもその頃。
ということを書いてみたのは、やっとお仕事を終えたから。
お仕事の中には研修レポートの評価もありまして、その内容を見ると、やはり「封建的価値観による発想・どこかにある意見の模倣」の人も少なくありません。そして、「企業・消費者・生産者」などの多面的視点からそれぞれの関係性を構築し、それぞれにメリットのある考察を示している人は、評価が高くなります。考察が具体的で実効性が高いんですね。
と、ここに備忘録として書いておいて、振り返りの内容を高校生の小論文・探究学習にフィードバックしようと思う今日この頃。
今日の松本は雪です。