以前、下のような記事を書きました。
みんなが幸福になる社会の実現の思考の根拠は「未来」です。
一方で、平等・公平、整合性を求める思考の根拠は「過去」です。
これを、ワクチン接種を例に考えると…
ojisann5560.hatenadiary.com
◆ワクチン接種のステージは変化した
当初は、国民の数に対し、ワクチンの数が足りない状況でした。
しかし、現在、ワクチンの確保はできたそうです。待っていれば、全国民が摂取できる状況に変わったのです。
大事なのは、感染症に対するワクチン接種の意義です。
ワクチン接種は、社会全体を感染症から守るもの。つまり、住民の70%以上が摂取することが理想。そうなれば、通常に近い社会活動を維持しながら感染拡大を防ぎ、封じ込めに進むことができるそうです。
ただ、そうなってもマスク、うがい・手洗いは、しばらく継続しましょう。現在のワクチンの「予防効果期間」はまだ何とも言えませんから。
◆接種の順番の平等・公平性重視から、ワクチンを余らせずに接種する段階へ
もう、年齢とかの枠は外しても良い段階と言えます。
言わんとすることは、「首長が先にうったのはズルい」と言えた段階もありました。
ワクチンの確保・供給が十分ではなかった時ですね。
しかし、もうその段階は去りました。既存の社会システムを利用して摂取できるところから進めた方がよい段階に入っています。
たとえば、中学・高校には「学校医」がいます。年度初めには「健康診断」をします。そのフォーマットを使って接種ができます。1日で全校終わります。たとえば「金曜日=在校生」「土・日=保護者」も可能。不登校気味の在校生は土日で。
同じことは「企業」でも可能。
で、私のように「無所属」なのは、公共の接種会場に行けば良い。
◆平等・公平を主張する人の言い分を良く聞いてみると
平等・公平は、封建的価値観の不条理に対するアンチテーゼとして生まれた「社会概念」だと思っています。その効果は「困った人」を助けることができるという点です。
しかし、窓口で「不公平だ!」と主張する人の言い分を良く聞いてみると、それが、正当性のあるものか、単なるクレームかの区別がついてきます。
「平等・公平」に反するという主張の先で、「自分を特別扱いしろ」と言っているのはクレームです(笑)。
教育部署にいた時、多かったのは「学校の先生は、生徒に対して公平であるべきだ。しかし、自分の子供だけは特別に扱ってほしい」です。もちろん、「困った状況に対する合理的配慮」は必要です。しかし、単なる感情論でくる場合は、お話を聞いて終わりにしていました。
◆確かに「自分だけ不利益を被っている、損している」と感じるのはしんどい
そうなると、誰かのせいにしたくなります(笑)
でも、「リモート授業のための無料Wi-Fi貸与」は、家庭にインターネットがない状況の生徒のためであって、「そういうのあるなら、私の子供にも寄越せ」は違うはずです。
「高齢者からだ」と主張してワクチン接種に時間が掛かることと、その間にワクチンの期限が切れてしまうことと、「利益衡量」の観点で考えることですね。
平等・公平もそうですが、民主主義には時間がかかるのです(笑)
◆日本社会が苦手にしていること
合意形成です。
コロナ対策・ワクチン接種は、科学・経済の両面から利益衡量し、国民との合意形成を経ることで可能になります。そして、こうした危機管理状況においては、リーダーシップが重要です。
これは、オリンピックも同じ。
オリンピックが嫌いなわけではない。選手に責任はない。世界の人々に日本に来てもらっておもてなしもしたい。でも、特定の人々の利権がうごめているようで、その人たちのための開催になりつつあるような印象を受けるんですね。
「数学は好きだけど、数学の先生は嫌い」みたいな感じ(笑)。
◆ステージが変わっている
コロナ対策は「トップダウン」の合意形成が必要。
オリンピックは「ボトムアップ」の合意形成が必要。
でも、逆ですね(笑)
どうやら、コロナ対策もオリンピックの是非も、「科学・経済」というステージから、「合意形成」に進んでいるようです。
この視点から、今後の日本社会と政治家の言動を判断しようと思う今日この頃です。
大和物語「姥捨」の風景です