テーマ「長野県松本市で文学散歩」
北杜夫はペンネーム。本名は「斎藤宗吉」。父は歌人の「斎藤茂吉」。
「斎藤家」の家業は「医師」、実家は「斎藤病院」。
斎藤病院の創設者は、北杜夫の祖父「斎藤紀一」。
病院は、北杜夫が生まれた頃は青山に、のち失火で全焼して世田谷区梅が丘に再建され、現在は府中市に移転しています。
跡取りに恵まれなかった「斎藤紀一」は、同郷の「神童(守谷茂吉)」の噂を聞きつけ、15歳の彼を上京させ面倒を見ます。神童は期待にこたえ、東京帝国大学医学部を卒業して医師となり、斎藤紀一の長女「輝子」と結婚して「斎藤病院」二代目院長になります。それが「斎藤茂吉」(斎藤家の婿養子だったのですね)。茂吉の長男「斎藤茂太」も医師となり斎藤病院院長の職を継ぎます。
次男「斎藤宗吉(北杜夫)」も、旧制松本高校から東北大学医学部に進み「精神科医」となります。「どくとるマンボウ青春記」は、作者の旧制松本高校から東北大学医学部時代の回想が中心。その舞台は「松本市」と「仙台市」です。
◆目次
現存する旧制松本高等学校の校舎
バスが便利ですが、頑張れば松本駅から歩けます。
周囲は公園になっており、校舎にも入れます。
ここにも、軽井沢と同じような「静けさ」があります。
移住先、松本にしようかと思ってしまいます(笑)。
将来は「昆虫学者」になることが夢。そのために高校は理科を選択。
しかし、旧制高校の寮生活と風変わりな先生たちとの出会いが、のちに作家となるきっかけ、文学への目覚めをもたらします。
敬愛する作家「トーマス・マン」との出会いも高校時代。
紹介したのは、寮の先輩「辻邦生」とか。その松本高校ドイツ語教授には、トーマス・マンの翻訳者である「望月市恵」がいました。こういうエピソードに旧制高校の雰囲気を感じます。
また、斎藤茂吉の「赤光」などの作品を読み、「それまで頑固でおっかないだけだった父」から「尊敬すべき歌人」へと認識を改めます。そして、自らも歌を詠み、父に送ったりします。
北杜夫が学んだ教室とその廊下
理科乙組とは「理系×ドイツ語選択クラス」という意味です
旧制高校の雰囲気が残っているのは…
地域で一番の公立高校には、旧制高校的な雰囲気が残っているかもしれません。
昔は男子校・女子校だった高校か、現在も男子校・女子校である高校だと確実。定期戦があって、春には応援団指導による応援練習を経験した方はいませんか(笑)。
どくとるマンボウ青春記には、その「応援団長」みたいな旧制高校生がぞろぞろと出てきます。いわゆる「バンカラ」ですね。
同じ敷地内にある記念館の展示から
新入生にとって「寮歌の指導」が「高校生活の最初の洗礼」です
父の厳命によって医学部に進む
北杜夫は、高校時代文学に目覚めつつも、昆虫学者への夢は持ち続けていました。
大学でも昆虫を学ぶことを希望しましたが、父の厳命に逆らうことはできず東北大学医学部に進みます。そして、仙台で小説を書き始めます。トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」に影響を受けた小説を書き、偶然見つけた同人誌に投稿したのはこの頃。
こうして作家「北杜夫」が誕生するのですね。
どくとるマンボウ青春記には「松本で文学に目覚め、仙台で創作を始める」というストーリーがあります。
また「無駄・バカ・ノリ」でしかない非合理的行為と非現実的な理想の実現に全力で取り組む「最高学府の学生たち」と、それを見守る地域と教師の姿。寮と言う集団生活の場で求められる「個人主義」と「バンカラ」に内在する逆説的苦悩も描かれます。
青春の内面をここまで描いた文学は、他に見当たりません。
落書きの中にある「憂行」は、高校時代に北杜夫が自称した「号」です(直筆)
学ぶことが良い意味で「モラトリアム期間」であり、「出会い」と「まわり道」とが人生の価値だった頃。「若者が主役」で「寛容が大人のアイテム」だった時代。
これからの人生、大人として「寛容」だけは失わないようにと思います。