昭和の価値観、平成の家庭教育の一つに「被害者にならない知恵」がありました。
学校では、「加害者にならないこと」を教わります。一方、家庭では「被害者にならないこと」を伝えます。「知らない人についていかないこと」から始まるやつですね。
我が家は娘でしたので、大学に進む頃には「情報教材や新興宗教の勧誘にひっかからないこと」「合コンや危険な飲み会のお誘いは断ること」も教えました。被害者にならないための知恵ですね。言い換えると「世界は性悪説に満ちている」です。
私と妻は、東京出身で、都内の私大に進みました(大学は違います)。
昭和の終わり頃、都内の主要駅には「日本中の映画館が割引になるチケット」「英会話教材」を売りつけようとする人がたくさんいました。世の中にはそういう悪い人がたくさんいて、そういう人にひっかからないことが東京人の常識でした。
一方、大学進学を機に上京してきた地方出身者の中には、英会話教材を購入してしまう人、しかも騙されたことに気づいていない人もいました。また、今風に言えば大学デビューして、六本木界隈の夜の遊びにはまる人や、夏になるとナンパ島と言われる離島に泊まりで出かける人もいました。地方出身者の多くは、アパートで独り暮らしです。そんなこともあってか男女関係も発展的で、地方から出てきた若者が東京でどのように羽を伸ばすかを目の当たりにすることも多かったです。
就職して地方勤務になった時、同僚のお子様が東京の大学に合格し、1人暮らしをすることになったという話を伺うと、そのことを思い出し、ちょっと複雑な気持ちになることもありました。お子様は、おそらく「被害者にならない知恵」は学んでいないでしょう。上京後、一度は痛い目にあって学ぶことは大人になるための通過儀礼なのですが、それが人生における致命的な出来事にならないことを祈るしかないという心境でした。
さてさて、「被害者にならない知恵を身に付ける」という価値観で育ってきた私と妻には、「世界は性悪説と加害者に満ちている」という意識があります。ここで気をつけるのは「被害者にも非がある」「女性にも隙があった」という発想を肯定しないことです。悪いのは「加害者、加害者をうむ社会構造」が基本線です。
metooやハラスメントの考え方は「加害責任の追及」です。ただし、加害責任を追及しようすると、「被害者にも、被害者にならない知恵が足りなかったよね」という反対意見が出てきます。昭和の価値観で育ってきた私と妻とには、この「被害者にも非があるのではないか」という感覚がわかります。特に妻は「女性なんだから自分の身は自分で守らないとダメ」という感覚から逃れられない部分もあって、無意識に女性に厳しくなってしまうこともあるそうです。
ただし、感覚的には被害者を責める気持ちはあっても、加害責任を問うことが健全な社会を作るために必要なことというのが公式見解になります。でも、こういう葛藤を抱えるのが昭和世代の限界ですね。
そんな親のもとで育った娘ですが、海外の方が居心地がよいらしいです。
「被害者にならない知恵」が役に立っているのかもしれません。
正解のない時代には、「加害者にも、被害者にもならない教育」が必要なのかもしれません。それが求められるモラル・リテラシーかもしれないと思う今日この頃です。