55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

自分の需要がなくなる…

 

長い勤め人生活にはいろいろなことがあって

 やることなすことを全部うまくいくという奇跡のような時期もあれば、その真逆という時期もありました。

 風当りだけが強い時、無風の時、上司との相性や自己評価の低下などもありますね。

 振り返ると、最初は10年ごとにそういうサイクルがまわっていたような気がします。そして、年を取るほど、そのサイクルが短くなっていきました。

 

最初のどん底は30代後半にやってきました

 私の力不足が最大の原因なのですが、とにかくあらゆることが「負の結果・評価」になりまして「使えないおじさん」となりました。

 そうなると、私の需要がなくなるわけで、ある意味で仕事の負担が減ります(笑)。

 重い仕事、責任者的なポジションには絶対にやってこない。常にサブ(のサブ)。あとは窓口業務(定時で帰宅できます)。ある地方での勤務中でしたので(出向扱い)、上司からは「東京に戻りたいだろ、でももう東京には戻れないから」と笑顔で言われる日々。

 まぁ、いろいろ思うことはありました(笑)。ただし、「サラリーマンは気楽な商売ときたもんだ」と発想を切り替えれば、激務から解放される、ほぼ定時で帰宅できる、明日のことを考えて憂鬱になることもない…というわけで、同僚からは「楽しそうですね、笑顔が増えましたね」と言われるようになりました。めでたい。

 

この期間中に学びを再開できました

 時間があるので(笑)、本を読むだけでは飽き足らず、聴講生となって週1回大学に通いました。年次休暇の活用です(笑)。

 目的は「一度壊れた自分の再構築です」です。心理・カウンセリング系ですね。

ojisann5560.hatenadiary.com

 壊れた自分の再構築をするに、「仕事がまわってこない環境」は最適。しかも、その後の私の業務の中心となる「組織の再構築」を学ぶきっかけにもなりました。ある意味でとても幸運でした。

 

誰もやりたがらない仕事に手を上げる

 その頃、不登校が大きな社会問題として取り上げられました。そして、公立学校にカウンセラーを配置することが決まりました。当時の勤務先でも実施しないといけません。しかし、当時は「不登校なんて本人の問題」「カウンセラーって?」という価値観が強かった時代。誰も担当したがりません。

 というわけで、「私やりましょうか」と上司に伝えてみました。

 後から聞いた話では、担当が決まって助かったという気持ちと、これで私にとどめが刺せるという気持ちとがあったそうです。

 

教育と医療とをつなぐ

 一応両方の部署を経験していたこと、聴講で心理・カウンセリングを学んでいたことは、助けにはなりました。いわゆる「専門用語・業界の習慣」に沿った言動は信頼構築につながり、異なる業界の間で「通訳・調整」もできました。

 何より、医師やカウンセラーとおつきあいさせていただく中で、「課題解決」「PBL」の手法や、生命倫理の発想を学ぶこともできました(門前の小僧程度ですが)。外の人と協働するのは楽しかったですね。

 内部的には、カウンセラー配置事業に理解・評価がないのは変わらず(笑)。しかし、理解がない分、邪魔も入りません。というわけで、「趣味×仕事」「業務×学び」が混在する日々。誰も理解してくれないのを良いことに悩んでいる人々と専門家との意向を最優先に事業を進めました。

 

 そして、1月のある日、上司に呼ばれます。

 異動の内々示。同じ業務を東京で進めることに。

 上司は不快感を隠さずに「ご栄転おめでとう」と言います。

 私も不快感を隠さず「まだ事業はこれからなので東京に戻らず、ここで担当を継続したい。今のお仕事もこの土地も気に入っています。」と返しました。

 出世と都会暮らしとが人生の幸福とお考えの上司に、私の気持ちは伝わらないことはわかっていました。しかし、今振り返っても、ワークライフバランスが最も取れていた幸福な時間で、それを失うことは嫌でした。上司に返した言葉は「嫌味」ではなく、「本音」です。

 求められなくなったら、自分が求めているものに取り組めばよい。

 こうして、私の「公務員としての異端性」は強化されていったのですね(笑)