下の記事の続きです。
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◆自分の中で基準が確立すると楽になる
昭和の価値観の中で育った人間ですから、何でもハラスメントにすることには違和感があります、正直。頭では理解できても、感覚的には納得できないこともあります。
しかし、「個人の属性に踏み込まない」と決めると、人との距離感がとても楽になりました。ここまでは「business」、ここから先は「none of my business」という割り切り、境界線が見えてきました。まず、年賀状の数が減りました(笑)。
当時はまだ、正月2日は上司の年賀の集まりに参加し、その際、奥様に台所を手伝わせるという習慣がありました。しかし、そういうことからも距離を置きました。
◆ドライな関係性がチーム力を高める
「個人の属性に踏み込まない関係性」を基準とすることで、いろいろわかってきたことがあります。たとえば「自己開示」。
公的な関係性があるから「自己開示」の余地が残るんですね。また、公的な関係性だけでは解決できない場合、「私的な関係性」で補う発想も出てきます。つまり、個人的な人脈を使うことですね。あるいは、秘められた能力などを提供してくれるメンバーも出てきます。
◆法学部出身者から学んだこと
封建的な制度や人間関係が、ハラスメントの導火線になることは少なくありません。
行き過ぎた上下関係は、暴力性を帯びます。同様に、法律は基本的に暴力なんですよ…と教えてくれたのは法学部出身の同僚。暴力だから抑止力が働くんですとは彼の言葉。
であれば、社会課題の解決に「科学技術」を用いた方がよい。法の設定や運用の際は、法の目的やその背景にある「倫理・哲学」を確認した方がよい。
何でも合理性、論理性を優先するのではない。非合理的でも、非論理的であっても、「倫理・哲学」「法の精神」から問題解決を考えることが重要…というのが、私のチームの合意形成初めの一歩になりました。
◆人権とは?
「本人の属性」に関することですね。それも、本人には責任のない属性の部分に、人権的要素は多くあるような気がします。
新型コロナの初期、これはやばいなと思ったことがあります。それは、感染すると「生活のプライベートな部分がすべて暴かれること」です。それこそ「人権無視」です(笑)。しかし、感染症は「検査→隔離」が基本です。そこで、隔離と人権とについて知恵を絞るわけです。
そんなこんなを考えていくと、「何でも人権を主張する人」への対応もわかってきます。「人権という言葉の暴走に過ぎない主張」なのか、「見逃された人権」なのか、見極めがついてくるんですね。
現場を離れるとそんなことがさらに見えてきます。
というか、現場にいることで見えないことも多いんですね。
兼好法師のイライラに少し共感を覚える今日この頃です。