歩け歩けというわけで、昨日は「早朝の通常散歩+歩いて蕎麦屋」を試みました。
通算の16,000歩です。
今までなら車だったところを歩くと、北アルプスや市内を流れる川の風景を落ち着いてみることができました。やはり松本って美しい町ですね。
歩いていけることがわかったので、これから外食先も歩いてと思います。徒歩だと、ランチビールも可能ですね(笑)。
今日は、いつもなら車で行くツルヤ(長野県内のスーパー)まで歩いて、スーパーの隣のスタバで原稿を書いてと思います。
さてさて、若い頃は「一人暮らしの老人」という単語には「偏屈な人」という勝手なイメージを持っていました。言葉を変えると社会に適合できなくなった人です。
で、自分がそうなってみると、自身が偏屈×社会不適合者であることを認めざるを得ません(笑)。もう組織で働くとか、贈与経済的な人間関係や暮らしを営むことはできないですし、したいとも思いません。
バブル就職組が会社で学んだビジネスモデルはとっくに過去のものですし、上意下達的で理不尽な人間関係の中で身に付けた「耐える術」は不要なものとなりました。「面従腹背的態度」も当時は批判されたものですが、今はむしろ処世術・マインドセットとして意識することも必要です。
一応、自分自身もそうやってアップデートしてきたつもりですが、器の小さい自分には、頭では理解できても…という部分もありました。そんな時、人間関係を断捨離し一人で暮らすってのは精神的に楽です。
一般論では「一人暮らし=偏屈な人、寂しい人」となると思います。
ただ、当事者からすると「世の中の価値観や人間関係のわずらわしさから距離を置き、自分のペースで読書・原稿・暮らしを進める優雅な暮らし」と言えます。
勉強を進めていると、かつて体験した「理不尽」の背景にはどのような社会構造があるかが言語化でき、理不尽に対しどのように対応すればよいかは、ソクラテスの時代から現代までずっと研究・考察され、1900年代には解明されていた(ただし、世の中には普及しなかった)こともわかります。
これは、人と議論する、現代社会の中に入って暮らすことでは逆にわからないことのような気がします。一人でのんびり暮らしているからわかるのかもしれません。
年齢的には「新しいことを学ぶよりも、一度学んだことを学び直す」方が学びや気づきが多く、楽しいです。そもそも、学問自体が進化していますから、学び直しでもアップデートになります。
糸井重里の昔々のコピーに「くうねるあそぶ」ってのがありました。
食う・寝る・遊ぶなんですね。
令和の今、そういう暮らしに達しました(結局バブル世代なんですね)。
そして、学びには散歩がよく合います。
というわけで、お仕事に戻って、歩いて買出しして週末を締め括ります。