数年前、長崎県島原半島の先端にある口之津港に行った時の風景
安土桃山時代、ヨーロッパからやってきたキリスト教の宣教師の多くは、ここから日本に上陸しました。そして港の近くに神学校(セミナリオ)を建て、日本人にキリスト教を教えました。この学校には西洋音楽の授業もあり、ここで学んだ日本人はリュート(ギターの原型となった楽器)やチェンバロに触れ、コーラスもしたそうです。人々は校舎から流れる西洋音楽を聴きながら農作業や漁網の手入れをしていたとか…。
というわけで、旅の3日目は、大分県中津市から九州を横断して長崎県西海市に来ました。西海市の南に位置する「外海町」には遠藤周作文学館があります。
外海町は、その代表作「沈黙」のモデルになった場所の一つ。作者が外海町に出会って沈黙という作品が産まれたといってもよいでしょう。今日は一日雨でした。明日は晴れとのことですので、小説沈黙の舞台を歩きたいと思います。
さてさて、早期退職してから逃れられなかった思いに「なぜ定年まで勤めあげることができなかったのか」があります。コンプレックスと言ってもよいですね。
しかし今になって思うのは、「早期退職を想定して40代から準備を進めていましたが、もし、準備なしで早期退職した時のような状況になっていたらどうしたか」です。
その時家族が「余命宣告と認知症」という状況でした。当時私は仙台在住で、家族は東京在住。そんなわけで、私は週末を利用して定期的に東京に通う必要が生じました。時には平日に連絡がありどうしても東京にということもありました。
今なら、家族優先という判断が組織としてできるでしょうし、リモートワークという手段もあります。しかし、当時は「直属の上司の価値観に振り回される」のが実態でした。「家族を犠牲にして仕事優先にするのが忠誠心であり美しい姿」という価値観の上司にあたった私は公務員を退職し、東京の企業へ転職しました。転職先の身分は介護の時間を確保するため「非正規雇用」、月給制の非常勤社員です。
これが可能だったのは、一応資金が貯まっていたこと、生活サイズを縮小し非正規雇用の給与でも貯金を切り崩すことなく生活できたことが大きいです。
もし、あの時公務員を辞めることができなかったらどうなっていたか…。
定年まで勤めることを疑うことなく、そのための資金的な準備もなく、生活サイズも…という状況で辞める決断ができたか? 何の準備もない状況で辞めてしまった場合現在のような暮らしが可能だったか? 辞めずに今でも働いていたとして認知症の家族はどうなったのか?
とかいろいろ考えてみると、どう考えてもよい結論には至りません。
変な話ですが、あの状況においては、公務員からの転職、そして早期退職が最もリスクが低い選択だったと言えます。リスクを低くできたのは、資金などの準備があったからですね…。
そう考えると、転職・早期退職を想定した生活設計はとても大事。
辞める決断を可能にするのは、「資金的な準備がある」「スキルや資格があって転職・再就職が可能な状況にある」ことが最低条件なわけで、スキルや資格はともかく、十分とは言えませんが資金的な準備があったのはよかったなと思います。
定年まで勤務して退職金と年金で…という現行の老後モデルはリスクが高いのかもしれません。国より自分を信じた方がよさそう。
そう考えるとこうなりますね
・現在働いている組織で定年まで働くつもりで頑張る
・投資や副業などの稼ぎを作っておく
・組織の外でも通用するスキルを身に付けておく
・住宅などのローンがある場合は、繰り上げ返済をして身軽になっておく
・給与が上がっても生活サイズは変えない
なんとも夢のない、超現実的なことですが、これが生存戦略のような気がします。
早期退職しろという意味ではありませんが、早期退職・転職を前提とした準備は進めていた方がよいということですね。
転職・早期退職したことが最もリスクの低い選択だったと思えるようになったのは、ポジティブになってきたと言えます。
ただ、早期退職・転職することでリスク回避になる組織や社会ってどうなんでしょうね…という根源的な疑問は残りますけど…。