昭和の教育を受けていますから、「夢を持つこと」「社会や人の役に立つこと」「自己犠牲の美しさ」みたいな価値観を後天的に刷り込まれています。
「あきらめること」「何の役にも立たない人間になること」「他者を犠牲にして自分の利益を守ること」は、唾棄すべき行為と言えるでしょう。
ただ、元公務員で間もなく還暦を迎える自宅で細々とリモートワークしている人間が、「松本市民の役に立ちたい!」「私にも昔から夢があってそれをここでかなえたい」といって行動を起こしたとします。役に立つでしょうか?
「何の役にも立っていない」ということは、かつて悪でした。
生活保護の申請にきた方が「本当に申し訳ない、すいません、お許しください、できだけ早く何とかしますから」と何度も繰り返す姿を見て、これは国民の権利なんですから堂々ともらってください。時間はかかってもよいのでしっかり治して、元の生活に戻れるようにしましょうと伝えていました。
早期退職=無職になって、失業給付金の手続きをしているときその人の気持ちを我がこととして理解できました。非課税世帯となって税金などの減免対象になった時、うれしい助かるという思いと同時に、罪悪感もありました。所得はないけど資産はあるわけで…。
しかし、「何の役に立っていないこと」が、「若者の行動の邪魔をしないこと、世の中の変化の妨げにならないこと、国家財政の世話にならないこと」であるならば、むしろ「おとなしくじっとしていること」が最大の貢献ではないか…というのが現在地です。
地域おこし協力隊として移住して、移住先でビジネスを起こして地域貢献できた! と思ったら、移住先の長老が出てきて…というトラブルがあります。長老にも、長老なりの地元愛があり使命感があり役に立ちたいという意欲があるんです。でも、長老の地元愛や意欲はむしろ害なんですね。強い地元愛や使命感は、恫喝・ハラスメントとなり、地域の衰退を招き、晩節を汚すことになります。
頼まれた原稿を書き、きちんと納税する。
また、延命治療はしない、余命宣告をうけたら治療ではなく緩和ケアということで妻とは同意しています。これから取り掛かろうと思っているのは相続のこと。早めにこの世を去ることになれば、一応数千万単位のお金が残ります。これを、私が応援している教育支援団体に譲り、勉強したい、大学に行きたいという若者への経済的支援にしたいのです。
何の役に立たなくてもよい、そのことに罪悪感を抱かなくてよい。
その代わりと言っては何ですが、健康を維持して医療費補助を受けないこと、無計画な生活をして資産を溶かして生活保護にならない、こと。
一言でいえば「年をとっても自立した生活をする=現役世代の負担にならないように暮らす」です。
老兵は消え去るのみ。
消え去ることが貢献、夢を持たないこと・役に立たないことが正解。
昭和の罪悪感は捨て去るのみですね。