晩節を汚すという言葉があります。
そういう言葉があるということは、そういう可能性があるということ。
その分野の第一人者と言われる教授・名誉教授クラスの研究者が、突然「トンデモ理論、思想的に偏った感情論に偏った論文」を書いたことがありました。
その時は、周囲が諫め、教授もしばらくすると冷静さを取り戻し、その論文は撤回され、私たちも「なかったこと」にできました。ご本人もその後自分を取り戻し、今では功成り名遂げた研究者としてご隠居生活を送っています。
これは、私が学生時代の話。まだインターネットがない時代。ですから、その論文を読んだのは学問の世界の、その分野の研究者に限定されていました。
しかし、もしあの論文がインターネット上に掲載され、一般の方の目に留まっていたら…、そしてその内容がSNSなどで拡散されていたらどうなったか…。
もちろん、学問の世界ではその論文は評価されません。説明は難しいのですが、強いて言えば「陰謀論レベル(たとえば人工地震だ!とか)」の内容と思ってください。ただし、陰謀論にも支持者がいるわけで、そういう人にとって「大学教授が自分たちと同じ意見を書いている」というのは、とてもうれしいわけです。そういう人たちと意気投合してしまうと、私たちの言葉は届かなくなったでしょう。そうなると、教授はもう学問の世界には戻ることができません。過去の業績もなかったものになったでしょう。いわゆる晩節を汚すですね。
これは学問の世界だけでなく、小説家や作曲家などでも、突然「えええっ」という作品を発表することがあって、そのことでそれまでの評価を喪失するケースがあります。ただ、「えええっという作品」を熱狂的に支持する人や信奉者もいるのが難しいところ。また、三島由紀夫のように、楯の会を結成して自衛隊の駐屯地で自決するという人生の終え方をしても、そのことと作品の評価はあまり結びつかない人もいます。
と、他人ごとのように書いていますが、私も危ない時期はありました。
現役時代で言うと、沖縄勤務の後半は「心理的に不安定×視野狭窄×思考停止」になっておりまして、かなり危なかったです。そういう時は、自己の意見・考え・思想信条しか頼るものがなく、それらを根拠とした判断しかできなくなるわけで、やばかったですね…。そんな私を救ってくれた沖縄の人々のやさしさに感謝です。
今年は年始からいろいろなことがあります。
いろいろなことが起きると、普段なら隠れている社会課題が表面化します。
その時、普段なら相手にされない「トンデモ理論・明らかに間違った情報」が可視化され、一定の支持者も現れ、世論になってしまうことがあります。いわゆる「根拠のない感情論」「事実ではなく解釈を根拠とする意見」ですね。
そういうものに、心を乱されないにと思います。
なんてことを思ったのは、学習支援で会話した高校生がネット上の世論の影響を受けていることがわかったから。そのことは、また機会があれば。
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