高校生の学習ボランティアをしています。
先日、高校2年生から「なぜ学ぶのか」がテーマとして提案され、それを数名で話し合いました。
(たぶん、学校でこのテーマが宿題(?)として出されたんですね…)
結構な進学校の生徒さんですから、小中学校は成績上位。やはり、成績×競争の中で勝ってきた人たちです。成績が下がることの恐怖も知っています。一方で、勉強の楽しさも知っていますし、「知的興味・知的刺激」を求めてもいます。
結論から言えば、「学ぶことは人間の本能」でいいのでは…です。
そこに、「無理やり理由」を求める必要はなくていいのではないでしょうか。
人間は、成長の過程で「知識欲」を発揮していくわけで、それを否定せず、この欲を素直に満たしていけばいいはず。
「学ぶ理由を合理的に説明しようとすると、知識欲がゆがむ」のではないでしょうか。結局、「よい大学に行く、大きな会社に入る」になってしまいますからね。また、「学ばない理由」はなんぼで立てられます。実際、高校生が一番盛り上がったのは、「学ばない理由を自由に述べる」という場面。
私たちは、「学ばない理由」を社会から後天的に学んでしまうのですね。
「知識欲」は先天的なもの・本能的なものなので、説明できません。食欲と知識欲とは、同類かもしれません。知識も、「好き嫌いがない人」から「偏食な人」までいて、「大食漢」もいれば「少食」の人もいる。そして、知識にも「添加物や人工保存料」がたっぷりなものもあれば、「無農薬」なものもある。
「資本主義・競争社会的発想」のない「学ぶ理由」を立てることはできるけど、それを「理解できる人は少ない」かもしれません。要するに「偏差値が高い大学を目指す=向上心が高い」みたいな価値観が、一番理解されやすいわけで、それが、世間のマジョリティーなのでしょう。
結局、「既得権を守る政治家」「利益誘導型の政治家」が当選するのと一緒。
であれば、「学ぶ理由」を言語化するよりも、「自分が好きなことを学ぶ」「学んだことを人に伝えられるようにまとめておく」でいいんじゃないの…という方向で収束していきました。それが、「志望理由書」なのでは…ということ。
「人口減少社会を前提に、未来の幸福を導くこと」という前提が「まったく理解できない人」は少なくありません。でも、人間に「学ぶ本能」「知的好奇心」があるのは、「未来を創造するため」だったはず。
(選挙区の住民を懐柔して選挙で当選するためではないはずで…)
そんな結論が、高校生から自然に出てきました。
「学ばない理由」も「学ぶ理由」も、言語化するのはどこか虚しいです。
本能のままに学んでほしいと、そんなことを思う今日この頃です。