会話しない1日って、意外と多いです。
職場にPCが普及した頃、周囲に「おはよう」と声をかけてPCに向かい、集中して作業し、「お疲れさまでした」と言って帰宅する1日が存在することに気付きました。やがて、lineなどが普及すると、家族とも会話しないで一日が終わることもしばしば。
お仕事では、会議やプレゼンがあります。しかし、それ以外で人と会話をしていない。つまり、「おはよう~プレゼン~お疲れさまでした」しか声を発していないんです。
そんなことに気付いてから、「声で会話すること」を意識的に行うように心掛けました。そうじゃないと、職場が病みます(笑)
◆介護の難しさに…
老いは病気ではありません。ですから、回復はしません。機嫌のよい日、悪い日くらいはありますけど、変化と言えば老化が進むだけ。最初は成立していた会話も、徐々に一方通行になっていきます。
やがて、介護することだけが社会とのつながりになっていきます。この頃、「介護者のアイデンティティが介護すること」になり、介護のことしか考えられなくなります。介護に一生懸命になると、無意識に見返りを求めます。つまり、回復しない老いに、病気のような回復・全快を求めるようになります。
◆会話の相手が…
この段階まで来ると、介護を抱える家庭は、社会的孤立に進んでいます。
介護者が会話する相手は、例えば母が介護を必要とする人であれば、母を担当する介護福祉士、ケースワーカー、医師だけになっていきます。ただ、どんな専門家であっても、母の老いを食い止めることはできません。老いですから。
しかし、この段階になると、介護者は、母の老いが進行することを受け容れることが難しくなっていきます。ほぼ一日寝ているだけなのに、病気になることが理解できない。在宅で一生懸命面倒を看ているのに入院の提案をされると、自分の努力・存在を否定されたように感じる。自力で歩けるようにリハビリをして欲しい。しかし、リハビリの様子を見ると母が嫌がっているように見える。でも、嫌がっているほど頑張っているのに、母は歩けるようにならない…。
こうしたことが「不満」として蓄積し、介護者自身も気づかないうちに不機嫌な人になっていきます。母を通してしか社会との接点がないため、母を大事にしてほしいという気持ちを他者にも強要してしまう。自分の努力を認めて欲しいという気持ちの表現が、少し歪んだ形で他者に出てしまう場合もあります。
歪んだ表現とは…、相手に対する依存や甘えを、攻撃的な言動でしか表現できないことですね。
◆歪んだ感情は、親身になって面倒を看てくれる人に向かいやすい
介護の状況、母の身体状況から「入院」が必要と考えられるケースは少なくありません。しかし、公的機関は「入院」を勧めても強制することは難しいです。「介護者の同意」が原則ですから。
しかし、親身の人、公的機関ではない人は入院を勧め続けます。そして、介護者にとっては「母を入院させる、させない」が、唯一の「会話」であり、「思考」の対象であり、「社会」との接点になります。そして、母が入院すれば、社会との接点を喪失することになりますから、入院にはなかなか賛成しません。つまり、「親身になって、継続的に支援を続ける人」に、反抗的態度を取り続けることになります。
周囲から見れば、それは「反抗的態度・攻撃的言動」ですが、介護者本人は「冷静な思考、母への愛情、他者への意思表示」のつもりなんですね。
ということを理解しても、現場では心が削られます。モノを投げられる、刃物を向けられることもなくはないです。それでも、放置はできませんから、定期的×要請があった場合は訪問します。なぜなら、私たちが「最後の砦」だからです。
◆同じことは社会のいろいろな場所でおきている
それが、学校の先生に向かうか、医師に向かうか、警察に向かうか、窓口の公務員に向かうか、店員さんに向かうかの違いだけ。共通するのは、いずれも「社会的インフラ=セーフティネットの担当」であること。ここが崩壊するような社会は、かなりまずい状況と言えるでしょう。しかも、優秀な人材がセーフティネットの現場から離れつつある。命の危機にさらされても「自己責任」で結論付けられる。日本は今、そういう状況に向かいつつある。
セーフティネットの崩壊は異常な出来事ではなく、日本の日常になりつつあるという危機感を個人的には持っています(個人の感想です)。