1972年(昭和47年)「恍惚の人」(有吉佐和子)が出版されます。
この小説の中で、主人公の妻の口から、日本の人口減少・少子高齢化について語られるシーンがあります。
札幌オリンピックが開催、横井庄一さん発見、あさま山荘事件、北爆開始、沖縄返還、日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件、ウォーターゲート事件、ミュンヘン・オリンピック、金日成国家主席というのが主なトピック。「太陽にほえろ」と「ガッチャマン」が始まったのもこの年です。
◆国のかじ取りは「未来と科学」を根拠としていた
平成元年の民間企業、その後公務員に転職しました。
共通していたのは「世界・日本の中長期的な未来」をベースに、将来計画を立てていたこと。
近代社会は「産業革命」によって成立しました。「科学技術の進歩」が未来を創造するわけです。というわけで、「科学=ものづくり」「教育=研究と育成」「文化=伝統と知恵の継承」が国家の根幹になるというのが、研修で学んだこと。
そのベースになるのは、1970年代にはすでに公表されていた「日本の人口減少と少子高齢化」という未来予想。小説「恍惚の人」で語られた未来予想は、現実になっています。
◆「優先順位」「必要性」の判断は現場にあった
公務員に転職した平成一桁の頃、「判断」は現場にありました。
例えば、町のインフラ整備には「老朽化という課題」があります。「橋」「水道」「学校・病院」などを補強する・建て替えるなどですね。優先順位としては「古いものから」「痛みが激しいモノから」「危険なものから」になります。
そういう判断は、現場がするものであることに異論はないと思います。
しかし、小泉政権×市町村合併のころから、「判断」が変わってきます。
◆「マーケティング的な発想」が判断の基準になってきた
川の向こう側にある、住民の少ない集落と国道を繋ぐ橋があるとします。
老朽化が進み、耐久年度も超えつつあるならば、架け替えか補修工事が必要です。
しかし、「利用者が少ない」「大型車両の利用はない」「住民もだいじょうぶと言っている」という「反対意見」が届きます。議員さんからが多いですね(笑)。
そのココロは、その予算を「新築物件」に回せなのです。そして、新築物件の予算が議会で承認されます。
おわかりと思いますが、住民の少ない集落に橋を架けても、票にならないんですね。
「選挙に落ちたらただの人」という議員の世界では、そのとおりです。
しかし、これは「公共のあり方」とは異なると思うのです。
◆政府・国民の「公共」の意識はどうなっているか?
SDGsの言葉に「誰一人取り残さない社会の実現」があります。
言葉をそのまま受け取れば、非常に難しい、非現実的な目標であることは否定できません。しかし、少し翻訳して「取り残される人とは誰か」から発想すれば、この言葉の意味がわかると思うのです。
貧困、疾病、国籍、性別、人種などなど、社会の既成の枠組みにあてはまらない人の人権を守る…その人たちの問題を解決し、人権を守り、幸福に導くことが、みんなの幸福を高めるはずなんですね。
しかし、小泉~安部~菅というラインからは(自主規制)。
◆医学研究に必要なこと
地域医療と研究医と、両方必要です。
いわゆる町医者として、患者が最初に接する医師は大切です。無医村をなくし、地域医療を充実して「健康を守る」ことですね。
一方で研究も必要です。治療法がまだない病気、何万人に一人という難病はまだたくさんあります。
ただし、「票」になるのは「地域医療」なんですね。結果、医学(に限りませんが)研究予算は削られ放題です。2018年、国内であるワクチン研究の予算が切られています。あくまで「もし」ですが、このワクチン研究が継続されていれば、新型コロナ対応も変わったものになった可能性があります。同じタイプなので…。
という愚痴で申し訳ありません。
でも、マーケティング「的」発想では、人口減少、少子高齢化、感染症には対応できないと思うのですね。そもそも、本来「マーケティングとは課題発見とその解決」の手法だったはず。それが、感染症対策ではなく、選挙対策になってしまえば、日本の未来は、かなり難しいものになります。
票になるのは多数決と競争原理。それは民主主義と資本主義の原則ではありますが、このシステムがもう限界で見直す必要があると感じる今日この頃。
任期が短い政治家ではなく、終身雇用の公務員に「判断」を戻すこと。さらに言えば、「普通の高校生と大学生を10人集めて、内閣総理大臣の権限」を与えた方が、日本の課題は解決に向かうような気がします。