という民主主義の根幹を揺るがすようなことを感じ始めたのは30代後半頃。
20年前ですね(笑)
職場で言うと、上司から叱責されました。私より若い世代にも反発をいただきました。で、この頃から、私の興味は組織作りに向かい始めたのです。
◆政治家の不祥事があると、それを選んだ市民の責任と言われますが…
選挙システム、社会構造の問題もあると感じています。
「政府がつねに失敗するのは、国民が望むものを提供するから」
(ブライアン・カプランは『選挙の経済学』より)
「国民が望むものを提供する」というマーケティング的な発想が、政治・行政の中心・選択・決定に移行したのは、小泉内閣あたりから。
これは、現在も続いています。だから、広告代理店が大きくなり、政府は失敗するんですね(笑)
◆多数決とマーケティングとは似て非なるもの
民主主義では「話し合い」があってから多数決。
マーケティングは、多数決の結論が出てから「話し合い」。
つまり、郵政民営化もオリンピック実施も、結論ありきの議論に過ぎません。
そして、話し合いの意味がなくなり「公共を守る意識」が薄れます。
賛否の根拠は「公共」より「個人の利益」になり、それを「個人の自由」で正当化します。
◆中堅政治家は票になる価値観を支持する
保守的な価値観、過去の常識など「変化を求めない価値観」は「票」になるんです。
ですから、夫婦別姓・LGBTなどへは「反対」、原発再稼働には「賛成」。2000年頃と比べると半分近くに減った公務員は叩いても大丈夫。富裕層も減っていますから、叩いても大丈夫。
つまり、少数意見、大きな価値観の変化を訴えるものを叩くと票になる。
進化論という誤解の多い学問を根拠にして、自分の意見の正当化をしても、その誤りに気付く人は多くはない。
◆公務員に転職した頃は
公務員の仕事は「公共の利益」「弱者の保護」「機会均等の実現」と教えられました。そして「地域の人々の知恵」から「公共」を学べと言われました。
多数決が間違っている場合は、躊躇なく「公共」を根拠に判断せよとも。
しかし、公務員のお仕事も「マーケティング的多数決」が全てになりました。
そこで、公共・正義を訴えるとどうなるかは、ご存じのとおり。
票になる政策は、委員会を短時間で通りあっという間に可決されます。
票にならない政策は、ネットや新聞が叩いても実現に向かいません。
政治家にとって多数決とは、自分の支持者の価値観に過ぎません。
政治は最高の道徳のはずなんですけどね…。