高校から大学生活を送ったのは、昭和50年代後半から昭和60年代。
下北沢に本多劇場、スズナリが立ち上がり、渋谷にはジャンジャン、Parco劇場があり、新宿には紀伊国屋劇場がありました。
◆学校帰りに、新宿・渋谷・下北沢に寄る
紀伊国屋では「つかこうへい」「井上ひさし」、ジャンジャンでは「高橋竹山」「淡谷のり子」、下北沢では「唐十郎」「夢の遊民者」「東京乾電池」「東京ボードビルショー」「第三舞台」などが活動していました。
当時は1,000円~2,000円で見れたのです。
◆「舞台」の魅力
こうした劇場に立つことは「成功」を意味してはいました。
しかし、世間的には無名で貧しいアンダーグランドの世界です。
テレビに出るのは「魂を売ること」という価値観がまだあって(笑)、映画に参加するのがギリギリのライン。テレビに出るのは「舞台のための出稼ぎ」というのが暗黙の了解。
ネットも携帯もない時代、「野田秀樹ってスゲーぞ」という噂、口コミだけが情報で、しかし、その舞台の内容が語られることはありませんでした。
◆演者と観客との共犯関係
当時、舞台の映像化はあり得ません。
舞台は、その場にいた人間(演者と観客)だけが知る、その場限りのものでした。
そこは「非日常」、「本音と狂気」の世界、「タブーなき聖域」、「封建的倫理・同調圧力・常識」から解放された「創造の場」。
「その場限り」だからできること…それが舞台。だから、舞台の内容は決して語られることはない。せいぜい、スゴイ、感動という陳腐な語彙くらい。
さらに言えば、舞台を見たことを隠すこともありますし、不用意に人にしゃべらないことも何となく意識していました。共犯関係ってそういうことですね。
◆大衆のための芸術、理解者のための芸術
どちらも本物なんですけどね(笑)
ただ、理解者を前提とした作品は、それ以外の人には否定されます。
それがわかっているから、公の仕事には関わらない。
貧乏でも好きなことをやりたい。貧乏だから好きなことができる。
若き日に、渋谷・下北沢で舞台の世界に触れ、そんな価値観を持ってしまったことが、早期退職を求め、東京を離れる人生の根っこにあったのかもしれません。