55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

日本文学こぼれ話 その1「坪内逍遥と森鴎外」(写実主義と浪漫主義)

テーマ「日本近代文学

 (個人的趣味ですが、お付き合いいただければ幸いです)

  日本近代文学は「小説神髄」(坪内逍遥)から始まったと言われます。

 「坪内逍遥」は「写実主義」。

 この「写実主義」に異を唱えたのが「森鴎外」。

 森鴎外は「浪漫主義」を唱え、逍遥に「没理想論争」を吹っ掛けます。

 そんな二人の生い立ちをさかのぼると…

◆目次

森鴎外は、「西周」の親戚である「森静男」の長男

◆森静男は、元津和野藩の典医。静男は代々津和野藩の典医である森家の婿養子。

 明治維新後、森家は西周の勧めで東京に移住し、森静男は向島で病院を開きます。

 「森鴎外」は、津和野で神童と言われ、四書五経の類はすぐに覚えてしまったとか

 

◆長男「森鴎外」は、医師となって森家を継ぐ運命にあった。

 森鴎外は、医師になるため大学医学部を目指します。

 まず、医学部進学に必要な「ドイツ語」を学ぶため、本郷壱岐坂にある「進文学舎」に入学。しかし、向島にある森家からの通学は遠い。

 そこで父は、神田小川町にあった「西家」に長男を預けました。

 この時、森鴎外11歳、明治5年のことです。 

 

◆明治7年、森鴎外「東京医学校」を受験

 2年間「進文学舎」に通ってドイツ語にほぼ習熟した森鴎外は、明治7年の春「東京医学校」を受験します。

 この時13歳。ただ、13歳では受験できないので願書には「15歳」と記しました。

 入学してみると、ほとんどの学生は20歳くらい。

 それでも鴎外の成績は、同級生30名中3~4番。

 医学の勉強が楽なので、貸本屋から江戸時代の小説や随筆を借りて読みふけり、貸本屋で手に入るような本はすべて読んでしまったとか…

 

明治7年、坪内逍遥「愛知外国語学校」を受験

◆明治7年、全国8か所に「外国語学校」が作られました。

 最初に出来たのが「東京外国語学校」で、次が「愛知外国語学校」。

 明治7年9月、「坪内勇蔵」という数え歳16歳の痩せた小柄な少年が愛知外国語学校に入学します。この「勇蔵少年」が、のちの「坪内逍遥」。

 

◆「坪内逍遥」は10人兄弟の末っ子。

 父母・姉に愛され、草双紙や読本類を愛読し、芝居を好みました。

 愛知外国語学校入学後は寄宿舎に入り、寄宿舎にいた外国人教師「ドクター・レーザム」の影響を受けます。

 「レーザム」は米国人で本職は医師。

 英語の授業では「発声法」に力を入れ、教科書にあったシェイクスピアハムレット」の一節「to be, or not to be」を表情たっぷりに俳優のような動作で暗唱したとか。

 歌舞伎芝居を見慣れていた少年「逍遥」には、外国の芝居を見るような心地がして印象に残ります。

 

明治7年、二人は同時に「洋学」を学び始めるが…

◆ドイツは「浪漫主義」の本場

 代々藩医だった家の長男「森鴎外」は、医師になるために「ドイツ語」を学び、後「ドイツ留学」をします。

 

◆イギリスは「写実主義」の本場

 10人兄弟の末っ子として生まれた「坪内逍遥」は、読書や芝居を好み、地元の外国語学校に進みます。

 当時の外国語学校は、実質「英語学校」。そこで「シェイクスピア=イギリス文学」と出会います。

 

まとめ(明治7年に「洋学」学び始めた二人の運命は…)

 少年時代に江戸文学を読みふけったのは同じ。

 明治7年から「洋学を正式に学び始めた」のも同じ。

 異なるのは「英語」か「ドイツ語」か。それは「生まれの違い」によるもの。

 この違いが、日本文学に「写実」「浪漫」をもたらすというこぼれ話(笑)

 

 二人の文学主義は、それぞれが育った環境と出会いで育まれたもの(偶然)。

 「自ら選び取ったもの(必然)」とは言い切れないように感じます。

 「運命とは偶然の産物…」と思う今日この頃です。

f:id:ojisann52:20201120124148j:plain

            (津和野の「森鴎外」生家)