テーマ「日本近代文学」
(個人的趣味ですが、お付き合いいただければ幸いです)
日本近代文学は「小説神髄」(坪内逍遥)から始まったと言われます。
「坪内逍遥」は「写実主義」。
この「写実主義」に異を唱えたのが「森鴎外」。
森鴎外は「浪漫主義」を唱え、逍遥に「没理想論争」を吹っ掛けます。
そんな二人の生い立ちをさかのぼると…
◆目次
森鴎外は、「西周」の親戚である「森静男」の長男
◆森静男は、元津和野藩の典医。静男は代々津和野藩の典医である森家の婿養子。
明治維新後、森家は西周の勧めで東京に移住し、森静男は向島で病院を開きます。
「森鴎外」は、津和野で神童と言われ、四書五経の類はすぐに覚えてしまったとか
◆長男「森鴎外」は、医師となって森家を継ぐ運命にあった。
森鴎外は、医師になるため大学医学部を目指します。
まず、医学部進学に必要な「ドイツ語」を学ぶため、本郷壱岐坂にある「進文学舎」に入学。しかし、向島にある森家からの通学は遠い。
そこで父は、神田小川町にあった「西家」に長男を預けました。
この時、森鴎外11歳、明治5年のことです。
◆明治7年、森鴎外「東京医学校」を受験
2年間「進文学舎」に通ってドイツ語にほぼ習熟した森鴎外は、明治7年の春「東京医学校」を受験します。
この時13歳。ただ、13歳では受験できないので願書には「15歳」と記しました。
入学してみると、ほとんどの学生は20歳くらい。
それでも鴎外の成績は、同級生30名中3~4番。
医学の勉強が楽なので、貸本屋から江戸時代の小説や随筆を借りて読みふけり、貸本屋で手に入るような本はすべて読んでしまったとか…
◆明治7年、全国8か所に「外国語学校」が作られました。
最初に出来たのが「東京外国語学校」で、次が「愛知外国語学校」。
明治7年9月、「坪内勇蔵」という数え歳16歳の痩せた小柄な少年が愛知外国語学校に入学します。この「勇蔵少年」が、のちの「坪内逍遥」。
◆「坪内逍遥」は10人兄弟の末っ子。
父母・姉に愛され、草双紙や読本類を愛読し、芝居を好みました。
愛知外国語学校入学後は寄宿舎に入り、寄宿舎にいた外国人教師「ドクター・レーザム」の影響を受けます。
「レーザム」は米国人で本職は医師。
英語の授業では「発声法」に力を入れ、教科書にあったシェイクスピア「ハムレット」の一節「to be, or not to be」を表情たっぷりに俳優のような動作で暗唱したとか。
歌舞伎芝居を見慣れていた少年「逍遥」には、外国の芝居を見るような心地がして印象に残ります。
明治7年、二人は同時に「洋学」を学び始めるが…
◆ドイツは「浪漫主義」の本場
代々藩医だった家の長男「森鴎外」は、医師になるために「ドイツ語」を学び、後「ドイツ留学」をします。
◆イギリスは「写実主義」の本場
10人兄弟の末っ子として生まれた「坪内逍遥」は、読書や芝居を好み、地元の外国語学校に進みます。
当時の外国語学校は、実質「英語学校」。そこで「シェイクスピア=イギリス文学」と出会います。
まとめ(明治7年に「洋学」学び始めた二人の運命は…)
少年時代に江戸文学を読みふけったのは同じ。
明治7年から「洋学を正式に学び始めた」のも同じ。
異なるのは「英語」か「ドイツ語」か。それは「生まれの違い」によるもの。
この違いが、日本文学に「写実」「浪漫」をもたらすというこぼれ話(笑)
二人の文学主義は、それぞれが育った環境と出会いで育まれたもの(偶然)。
「自ら選び取ったもの(必然)」とは言い切れないように感じます。
「運命とは偶然の産物…」と思う今日この頃です。
(津和野の「森鴎外」生家)