開始時は「サイトウキネンフェスティバル」でした。
その名称は、オケの名前に残っています。
「サイトウ」とは、小澤征爾氏をはじめとした多くの音楽家の師である「齋藤秀雄氏」のことです。
◆東京神田に「正則学園高校」という学校があります
この学校の創立者は「齋藤秀三郎」、職業は英文学者。
私たちよりも上の世代で大学受験をした方は、齋藤秀三郎の文法書・辞書にお世話になっています。
日本の英語教育の偉人です。
◆齋藤秀三郎の次男が、齋藤秀雄
長男は早世してしまったので、実質長男。
東京は築地明石町で生まれます。現在の聖路加病院の海側の方で、近くには「青山学院」「女子聖学院」「明治学院」創立の碑があります。
ちなみに、齋藤秀雄が生まれた10年後、同じ築地明石町で農場・牛乳販売業を営んでいた「新原家」に待望の長男が誕生します。この長男が、のちの「芥川龍之介」です。
◆齋藤秀雄の母と小澤征爾の母とに、血縁関係があった(はとこ)
齋藤秀雄の母と言うことは、齋藤秀三郎の妻ということですね。
若き日の小澤征爾が音楽を学びたい・指揮を勉強したいと相談した時、母に紹介されたのが「齋藤秀雄」。この縁が、日本の音楽史を変えたと言えるでしょう。
当時の齋藤秀雄は、父が立てた千代田区・番町の邸宅で暮らしていました。現在のイギリス大使館の隣。のち、江戸英雄(三井不動産会長)の勧めでマンションに建て替え、5階をレッスン室、6回を居室としたとか。小澤征爾、秋山和慶、山本直純らも、レッスンを受けるためにここに通ったと思います。
◆齋藤秀三郎の妹のこと
齋藤秀雄が生まれる7年前、齋藤秀三郎の妹さんが亡くなっています。
亡くなったのは、仙台の実家で肺結核の療養中のこと。
この妹さんが「齋藤冬子」。
彼女は、宮城学院に進むも、校長との教育観の違いからストライキを起こして退学となり、上京して明治女学校に入学します。その明治女学校の英語教師が「北村透谷」。高い英語力を身に付け、発言や意思表示にも積極的だった「齋藤冬子」は、授業中、先生である「北村透谷」と丁々発止のやり取りを繰り広げ、その様子は代々語り伝えられたとか。
二人の間には恋愛感情があったと言われています。しかし、透谷は妻帯者であり、先生でもありました。二人は、日本文学史上に残る「純愛」を貫いたと言えるでしょう。
やがて、肺を病んだ冬子は、仙台の実家に戻って療養中に亡くなります。その約1カ月前、透谷は自宅で縊死を遂げます。透谷の死の一報は仙台にも届きましたが、冬子には伏せられたままだったとか。
齋藤秀雄氏のことよりも、その周辺の話題を思い出すままに書いてしまいました。
気が向けば、もう少しいろいろ書いてみたいと思います。

(齋藤秀雄氏の母校「上智大学」です)