55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

堀辰雄文学記念館を訪ねて 

テーマ「軽井沢で文学散歩」

 軽井沢を愛した作家はたくさんいます。

 作家たちの軽井沢滞在は「避暑型」と「定住型」とにわかれます。

 その中で「堀辰雄」は定住型。

 戦後、建築した自宅が「追分」にある「堀辰雄文学館」です。

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◆目次

  

なぜ、堀辰雄は軽井沢に「定住」しようとしたのか

 文学記念館で感じたのは「静けさ」です。

 文学館の近くには国道もあり、物理的には「静か」とは言い難いです。

 しかし、堀辰雄の旧宅である文学記念館には「静けさ」がありました。浄められた空気感とでも言うのでしょうか。その穏やかな空間にいると、心のざわつきが収まっていきます。

 この「静けさ」が「軽井沢」だとすれば、堀辰雄が「定住」を求めた理由がわかります。 (「つまりはこの静けさなんだな」(梶井基次郎風に)) 

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               (記念館の入り口)

軽井沢で暮らす堀辰雄を訪ねて来る青年がいました

 戦争中、堀辰雄は現在の軽井沢駅から北東方向にあった旧サナトリウムの裏で暮らしていました。

 そこに、慶應義塾大学文学部の学生が月に一度やってきます。この長身の学生が、若き日の遠藤周作。戦時統制の中、軽井沢までの切符や旅費を工面することは大変だったと思います。それでも月に一度、堀辰雄との面会に来たのはなぜか。

 遠藤周作が、堀辰雄を訪ねて軽井沢に来始めたのは昭和19年頃。

 暮らしから自由が失われ、大学では教練があり、赤紙~出征という日々の中、人間関係は「監視」「攻撃」「否定」「悪意」が日常になっていく。戦時下のそんな緊張から解放される非日常性を軽井沢に感じていたのかもしれません。そんな非日常性も「静けさ」と言えます。

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          (遠藤周作が訪問していた頃の堀邸)

「美しい村」

 軽井沢を訪問した遠藤周作は、旧中山道の街道筋をバスでたどり、塩名田郷に行きつきます。彼は「塩名田」を日本で最も「美しい村」として愛し、小説「さらば、夏の光よ」で登場人物の出身地として描きます。

 堀辰雄の小説「美しい村」は軽井沢を喩えた作品と言われます。

 その「美しさ」とは何か。

 それは「静けさ」だったのかもしれないという、今回の旅の感想なのでした。

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        (塩名田を流れる千曲川を渡る橋から)

 

 現在、住まいの購入に向けて動いています。

 そこに求めているのは「静けさ」なのかもしれません。

 軽井沢移住を諦めきれないのは、それが理由のようです。