40歳を過ぎて、東北勤務になりました。
初めての東北暮らしで知ったのは、蕎麦のおいしさ、海鮮の新鮮さ、スキー場と温泉がセットになっていること、四季の変化の美しさ。
特に、妻や娘が東北を気に入り、後々、娘は仙台の大学に進学することに…。
そして、「早期退職×老後の暮らし」を考えていた私は、仙台にマンションを購入しました。中古ですが、2LDKが1,000万円前半で買えるのです。東京の半分以下。
というわけで、賃貸から分譲になり、断捨離も進み、早期退職の準備が進みます。
そして、東日本大震災が起きます。
いろんなことがありましたが、この時は私は、「ああ、私は東北で一生を終えるんだな。この土地の人々の暮らしを支える人生になるんだな」と感じていました。
つまり、「定年まで働き続けるという選択」が意識の中で大きくなってきたと言えるでしょう。
また、「津波の前の街の姿に戻してほしい」という声は強かったですが、復興のためには「未来を根拠に」という声も大きくなってきました。つまり、「人口減少に端を発する時代の変化」を受け入れ、これを機に、「発展より持続性」に舵を切る自治体・民間企業が増えました。そうなると、仕事に対する私のモチベーションは高まります。
その頃、母はがん闘病中でした(東京在住です)。
母を仙台に呼ぶことなども考え、上司には、「東北勤務で固定してください」と伝えました。もし、東京に戻ることがあっても、その後東北に戻してくださいということです。生活本拠地も「仙台」にしました。
もしですが、この時「東北勤務で固定」されていれば、私はまだ公務員として働いていたと思います。住まいも仙台のままで、母の死に目にも間に合ったでしょう。
しかし、ある日突然、上司に呼ばれた私は転勤の内示を受けます。
東京経由の沖縄勤務…。
任期を確認すると、「2年」という返事。
この時、母はまだ東京にいます。仙台で物件を探していた時でした。
2年は、母の状況からすると難しいです。
「断れますか?」と聞くと、「すまん」という言葉が返ってきます。
「沖縄の後は、東北に戻していただけますか」と聞くと、「努力する」と。
沖縄では、人に恵まれ、学びも多く、とても充実した時間であったと思います。しかし、結局沖縄には4年間勤務することとなりました。理由はわかりません。
この間に、母は天国に旅立ちました。仙台のマンションは処分しました。
仕事のモチベーションが下がり、父の認知症は進みます。
予定していた早期退職資金が貯まるまで、もう少しです。
つづく…