55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

心がざわつく週末

 最初に、共通テスト初日、動揺する中で受験してくれた方々に、そして、現在避難していただいている方々に感謝申し上げます。

 みなさんの落ち着いた行動によって多くの人々が救われています。

 

現役時代なら緊急招集事例

 教育委員会在籍時は、休日であっても、何もなくても、センター試験の日は出勤していました。全国50万人以上が受験するイベントです。何もないことが原則ですが、何かが起きることが前提でもあります。

 自然災害についても同様。地震なら、震度5以上で無条件即召集が原則でした。ただ、例えば東京が震度1でも、震源地が5以上の場合は自主的に集まっていました。東京は関係ない…ではなく、「後方支援」「避難受入」などの想定です。

 

学習支援で関わっていた受験生も、無事に初日を終えたようです

 事件のあった会場で受験した生徒から連絡ありました。動揺がないわけではありませんが、2日目も頑張ると言っています。安心してください。という連絡が、担当の先生から来ました。

 共通テストの一週間前から、「試験に集中、新聞もテレビも見なくて良い、世の中でどんな大きな事件が起きても関係ない」と受験生に伝えていたそうです。この言葉の効果があったようですね。ただ、一応受験生のケアとしてZOOMをあけておいてくださいと言われました。現場の先生は、本当に生徒に寄り添っています。

 

偏差値より個人

 私は、都内にある普通の私立高校、私立大学出身です。

 高校の同級生に、旧帝大とか医学部はいません。そういうレベルの高校ではないです。大学は文系で、ゼミの教授は「授業に出ているヒマがあったら図書館で本を読みなさい。旅に出なさい。ゼミで討論するのも良いけれど、夕方になったら飲み屋に移動して朝まで語り合いなさい」という人でした。大学の同期・先輩の大学選びの根拠は、偏差値ではなく、「○○教授に師事したい」でした。

 つまり、偏差値より個人です。

 公務員になると、特に地方勤務では、私以外全員国立大学出身なんてこともよくありました。仙台時代だと、私以外東北大学とかですね。関西時代は、私以外大阪大学神戸大学という部署もありました。難関大学出身の方って、基本「努力の人」です。ですから、プロジェクト・ワークや、課題解決への適性が高いです(個人の感想です)。そういう人々と働くのはとても楽しかったです。

 つまり、私自身は「学歴フィルター」に出会うことなく、パッとしない私大出身ということで過大な期待を背負うこともなく、ひたすら自分の専門性を磨くことができました。そんなわけで、偏差値より個人という価値観が強いです。

 

個人より偏差値という現実もある

 学閥ってありますか? と高校生に聞かれることもあります。

 公務員は採用試験の点数で決まります。ですから、出身大学はあまり関係ありません。ただし、採用後、学閥の影響はあります。と答えています。意外と大きいのは出身高校ですね。地方の場合は、地域の名門高校閥ってのがあります。

 理系出身の同僚は、妥協せず旧帝大を目指せと繰り返していました。理由は、研究予算の違い。たとえば旧帝大系だと、学生一人に試験管1000本くらいの予算がつく。しかし、旧帝大以外だと、学生4~6人に試験管1000本という予算規模になる。これでは実験規模や精度があまりに違う。つまり研究環境=予算規模の大きな大学=旧帝大系という主張なんですね。

 旧帝大理系に優秀な人が多いのは、「予算が多い=たくさん実験できる=たくさん発想できる=たくさん検証できるからなんですよ」というのがその弁です。

 

競争的発想から離れたところで志望を考える発想

 人口が増える時代は「競争的価値観」に傾きます。

 しかし、人口減少時代は「適性」が重要になってきます。つまり、自分と向き合い、自分を理解し、自分にあった学校・職業を選択する発想ですね。

 たとえば、自分にあった職業が医師であるかどうかを徹底的に確認するのです。

 医師への適性があれば、あとは「東大医学部」に合格する努力を積み重ねるだけです。ただ、医師への適性はあっても、東大医学部に届かないのであれば、東大ではない大学に変更する柔軟性が必要でしょう。

 いわゆる「総合型選抜(旧、AO入試)」は、競争ではなく適性を優先する発想なんですね。もちろん、適性の中には学力も含まれます。これからは、こちらの発想が中心になってくるはずです。そのための「探究学習」でもあります。

 競争的価値観から離れることが、「誰も取り残されることのない社会」への第一歩ではないかと思うんですけどね…。