白化粧した常念岳
やっと晴天の日が続くようになりました。
散歩は昼過ぎが恒例となり、その間無人の部屋の窓を開放しておきます。
換気をすると部屋の湿気も逃げるのか、早朝の結露が少し減りました。
灯油ヒーターも使っていますから、寒くても換気は欠かせないです。
世の中、いろいろ騒がしいことが多いです。
高校生から問われることもあるので、何となく何が起きているかは大雑把に把握しておくのですが、個人的には興味が薄れてきました。長いこと生きていると、同じ職場だったり一緒にお仕事をさせていただいた方が登場人物だったりすることもあります。そういうケースでも「あああ」くらいの感想しか湧かなくなってきました。
先日、私よりちょっと若い方のインタビューを拝見しました。
世代はほぼ同じなので、その方のおっしゃることはよくわかるんです。わかるんですけど、その価値観ではもう世の中をよくすることはできないんですね。むしろ、世の中をよくすることに対する妨害になる。
ただ、その人に悪意はないんですね。もっとこうすべきだ、これは間違っている…と善意でおっしゃる。そして、まだまだ自分は現役だと豪語される。要するに間違っているのは世の中だという認識なんですね。
個人的な感想ですが…、若い頃は「天動説」でもいいんです。それくらいの勢いがあってもよいし、そもそも近代的自我のスタートラインはそこにあります。
でも、年齢・経歴を重ねる中で「地動説」を認めないといけないんですね。
160㎞をこえるストレートで三振を取れるうちは、自分のボールだけを磨けばいいんです。でも、それを打ち返されるようになったら、打者の視点・味方の守備陣を信じること・ベンチの考え・試合の流れなど様々な要因から最適解を導かないといけない。となると、変化球も投げないといけないし、コントロールや配球もおぼえないといけない。さらに言えば、自分が登板した試合で「打者があいつのために打ってやろう・守ってやろう」と思ってもらえるようにならないと勝てない。
変な話ですが、今の世の中の騒ぎの多くは、地動説か天動説かの争いのような気がしています。もちろん、科学的に正しいのは地動説なわけですが…。
たとえばですが、昔は高齢者をみんなで支えようだったわけです。
人口比がそういう価値観を生んだとも言えますし、その価値観を可能にしていました。しかし今は、みんなで支え合うが必要です。世代に関係なく応分の負担を分かち合うことが基本線で、人口比的に言えば20代以下をみんなで支えようという価値観の共有が必要とも考えます(個人の感想です)。
変な話ですが、災害時、みんなで支え合う・応分の負担を分かち合うという価値観を共有できた避難所は、心理的安全性が高かったです。一方落ち着かない避難所は(以下自粛)。
というわけで、応分の負担ができるだけの稼ぎと健康とは維持しようと思う今日この頃。というわけで、お仕事に戻ります。