紅葉が市内に降りてきました
高校がミッションスクールで、週一回、礼拝と聖書の授業がありました。
信仰を勧めることはなく、学問としてキリスト教を学ぶ、西洋を学ぶということが最初に告げられたのをおぼえています。また、他の宗教を信仰していて、そのために礼拝には参加できないという同級生は、礼拝の時間職員室で過ごしていました。
他の宗教を信仰していてキリスト教主義の学校に進学してくることに疑問はありましたが、母校の良さは「個人に対する寛容さ」だったと思います。
今でもおぼえているのは、火曜日の2限が聖書、3限が生物だったこと。
聖書の授業は天地創造から始まり「人類は神が創ったもの」と教えられます。
生物の授業は進化論から始まり「人類はサルが進化したもの」と学びます。
生徒からは「聖書の授業ではチャプレンの○○先生は、人類は神が創造したものとおっしゃっています」というつっこみが入ります。これが高校1年生の4月。
生物の先生は極めて冷静に「聖書に書かれていることは真実です。生物の教科書に買書かれていることは事実です」と返します。
「先生はどっちを信じるんですか?」
「…私はここでは生物の教師ですが、牧師でもあります」
なるほどな…と思いました。
私がキリスト教に親しみを感じつつもクリスチャンにはならなかったのは、要するに「一神教への違和感」なんですね。
「キリスト教の神以外を信じてはならない」という言葉は、えてしてそれ以外の宗教や価値観を否定することにつながります。それが戦争に発展したり、対立の要因になるわけで…、そもそも世界中に「複数の一神教がある」という逆説を受け容れられないことにトラブルの根源があるような気がしていました。
一神教を信仰する人は、個人として「その神以外を信じないこと」は自由だと思います。ただし、「異なる宗教・価値観に基づいた社会に個人の宗教的価値観を強要すること」はいけないと考えています。
教育委員会の中には「私学課」というセクションがありますが、その役割の一つに「宗教教育の監視」がありました。学校の教育方針としてキリスト教や仏教を掲げること、その考えに基づいた教育活動を行うことは問題ないです。ただ、それが教育活動を逸脱した・強要した…となるとまずいです。そのボーダーラインは極めて曖昧なのですが、そこでは「一神教のデメリット、宗教を学問として学ぶこと」について質疑を繰り返すことを意識していました。
宗教だけでなく「そのことしか信じない、自分の価値観でしか行動できない」という一神教的言動を示す人はいます。おそらくその人は、そういうことを無意識に行っている可能性が高いです。もし意識的であるならば「自分の価値観と異なる人を徹底的排除・否定することで、自分の価値観の中に取り込む・支配すること」を戦略的に行うはずです。
なかなか困りますね(笑)