二宮敬作自宅跡のある路地(西予市卯之町)
◆本日のルート
・朝8:00 徳島県美馬市を出発
池田町~祖谷渓~土佐町を経て西予市へ(二宮敬作旧居訪問)
八幡浜市へ移動(二宮忠八生家跡訪問)
・16:00 伊予市のホテルへチェックイン
・走行距離 315キロ
・平均燃費 30㎞/ℓ
・移動費 約1,700円
・その他 宿泊費 5,120円 食費937円 合計6,057円
◆徳島から愛媛・宇和島方面に向かう
素直に、四国中央・新居浜・西条・松山に向かい、宇和島方面に下ればよいのですが、せっかくなので、吉野川沿いの山間部を走ることにしました。
小歩危・大歩危から祖谷のかずら橋に向かうルートです。かずら橋には寄りませんでしたが。吉野川沿いの渓谷を走るルートは最高でした。途中から晴天になり、自然を浴びるドライブを満喫しました。土佐町から早明浦ダムの横を走るルートも美しく、これは、また来たい・走りたいと思います。きっとバイクとかオープンカーとかだともっと楽しいでしょう。
そして、距離で約200キロ・5時間ほどかけて、西予市に到着しました。
◆二宮敬作旧居
江戸時代、「宇和島藩×伊達家」は学問を重視したと言います。
宇和島で生まれた二宮敬作は、医学を学ぶために長崎に渡りシーボルトに師事しました。しかし、シーボルト事件が起き、敬作は投獄されます。幸い、半年ほどで釈放されましたが、江戸払いとなり、故郷に戻ります。
この時、現在の西予市宇和町卯之町のこの場所で開業し、医師として暮らします。
現在は個人のお宅になっています
◆楠本イネもここで暮らす
シーボルトは長崎滞在中、日本人女性お滝との間に娘を授かります。
シーボルト事件で帰国する際、高弟の一人であった二宮敬作に娘の養育を頼んだと言います。この娘が、のちの楠本イネ。日本人最初の女医(産科医)と言われています。
イネが、医学を学んだのはこの場所。つまり、二宮敬作の自宅兼病院に住み込み、医師としての修業をしたのです。
この路地をイネが歩いていたのですね…。
小説「ふぉん・しーほるとの娘(吉村昭)」で描かれています。
ちなみに、日本人最初の女医は誰か…という論争があります。
同時代に女性で医師として活動した人は複数いますが、時間的には「楠本イネ」が早いと言われてます。資料があることも大きいですね。
その後、明治政府が医師の国家試験を実施します。最初は女性の受験は許可されませんでした。しかし、女性の受験が許可され、最初に合格して医師免許を手にしたのが「荻野吟子」。
ただし、この時、楠本イネはすでに江戸で産科医として活動していました。
つまり、時間的には「楠本イネ」、国家試験合格者としては「荻野吟子」。では、楠本イネはなぜ国家試験を受けなかったのかと言えば、すでに医師として活動していたイネには、国家試験を受けなくても医師として開業することが認められていたということのようです。
◆二宮敬作旧居の裏手にちいさな庵があります
ここは、高野長英の隠れ家。離れとか納屋という感じではないです。それにしては小さすぎる。強いて言えば「茶室」ですね。
同じくシーボルトの高弟であった高野長英は、「蛮社の獄」で捕らえられ、今でいう「無期懲役」になります。無法者が投獄される一般牢に入りますが、医師としての能力や、彼自身の資質もあったのでしょう、やがて「牢名主」となって獄内ではかなり自由な暮らしを得ます。
ある日、刑務所内で火災がありました(長英が関わった説あり)。解き放ちとなった長英は、本来戻るべき時間・場所に現れず、逃亡生活に入ります。
各地を転々する中で、二宮敬作を頼り、ここで匿われます。やがて、追手の気配を感じた長英は、顔を焼いて変装し、江戸に向かいます。
小説「長英逃亡(吉村昭)」にこの場が描かれています。
◆四国訪問の目的はこの場所を見ること
というオチ。ここは西洋医学が伝えられ、人々の病気などを治した場所。
歴史と吉村昭作品が好きな私にとって、ここはいつか来てみたい場所でした。
天気も良く、二宮敬作・楠本イネ・高野長英が暮らした場所、見上げた空を見ることができました。満足です。
さて、明日はどうしましょうか。
まだ、…うどんを食べていないんですよね…。