◆昭和の価値観では
子供時代、父と会うことはあまりなかったです。そういう記憶・認識。
民間企業勤務でしたが、夜は終電・日曜日はゴルフ、のちに単身赴任。つまり、子どもが寝てから帰宅。日曜日は子供が起きる前に出かけてしまうという感じ。
私も社会人になってからわかりましたが、終電までデスクワークというわけではなく、要するに接待だったのですね。平日は麻雀、日曜日はゴルフ。多分、する側であったことも、受ける側であったこともあったはず。
そういう状況に対し、「父は、一生懸命働いてお金を入れてくれて、それで私たちは暮らしている」というのが、当時のスタンダードな価値観と思うのですが、どうでしょう。
◆家庭を大事にするという価値観
高木豊さんが、YouTubeでダルビッシュにインタビューしています。
どんなに野球で高い実績を残しても、家庭を大切にしないと尊敬されない…ということをアメリカで学んだというお話。
昭和の日本社会というか、企業戦士というか、24時間戦えますか…の時代は、家庭を犠牲にすると上司のウケがよかったです。結婚すると異動・家を買うと転勤・子供が進学すると海外派遣という「通過儀礼」があって、これを受諾しないと出世競争から脱落する。そこで、「妻が家庭を守る」「子どもを育てる」という言葉が生まれたのでしょうね。
どう考えても矛盾なのですが、社員(夫)には家庭を犠牲にすることを求めつつ、妻が専業主婦で、子供が進学校にいることが評価になる…つまり、家族・家庭も人事考課になるという時代。しかし、その中で過ごしていると、そういうことに気づきにくいです。
◆果たして私はどうだったのか…
ダルビッシュのインタビューを妻と一緒に見たのです。
お互いに考えたのは、私たちは家庭を大事にしてきたか…ということ。
私は自分のやりたいお仕事を優先して転職があり、妻はキャリアアップを目指して企業で働いています。気持ちは家庭が一番でも、現実は仕事優先。二者択一を迫られた時、犠牲にしたのは家庭の方。
しかも、私も妻も、仕事と暮らしの境界線が曖昧なタイプで、休日に温泉に行って、そこでお仕事を片付ける、必要な本を読むということも多いです。
これでは、尊敬されないですね。というか、令和では許されないでしょう。
◆昭和世代の反省
野球に「犠牲バント」があります。自分が犠牲になって走者を進める・チームを勝利に導くという発想ですね。これは、昭和世代に共通する無意識の価値観かもしれません。でも、誰かが犠牲にならないと幸福実現ができない…というのは、ちょっとつらい。そういう価値観の中では、誰かを犠牲にして自分が幸福になるなら、自分が犠牲になってみんなに幸せになってほしいという選択になることもあります(それが高い道徳観にもなる)。しかし、それしか、解決方法がないというのは、社会や組織の成熟が足りないとも言えます。
やはり、自分の幸福がみんなの幸福になる、家族の幸福になるという関係性を意識しないとね…。ということで、それは「ティール組織」かもという話。家庭にティール組織の発想を…という、結局、仕事と家庭との境界性があいまいな話なのですが(笑)、今は妻が現役で私は主夫。
主夫でいることに自己犠牲はないか、お互いに自己犠牲を相手に強いていないか、確認しながら暮らしましょうという話でした、お粗末。
アメリカ野球が、犠牲バントをしなくなり、2番に強打者を置くように変わったのは、データの裏付けやパワーヒッターが増えたことがあると思います。ただ、誰を犠牲にしてまでも勝利を求めることは最低限にしたいという価値観の変化もあるのかもしれません。投手のローテーションも「機会均等」という発想が背景にあります。
栗山監督が、選手にわびたのは「機会均等」ではなかったこと。日本の優勝には、選手の犠牲が必要だったということへの懺悔なのかもしれません。