55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

大きな概念に内在する弊害のことなど

 

宗教×信仰の問題は、教育や医療の現場でも

 医学部入試で時々出ます。たとえば、こんな問題。

 交通事故で救急搬送された方がいる。出血がひどく輸血が必要である。しかし、本人とご家族が信仰している宗教の関係で、輸血ができない。さて、あなたならどうする。

 また、各県の教育委員会には「私学課」があります。そこの業務の一つに、「宗教教育を取り入れている学校の監督」があります。たとえばミッションスクールだと、礼拝や聖書の授業がありますね。これらが、「信仰を強要するもの」でないかを監督するってことです。

 

大きな概念に悩まされるケースも少なくない

 「信仰の自由という大きな概念」があって、これを主張されると反論が難しいのですね。同様のものに「公務員は税金で食っている」ってのもあります(笑)。この言葉に反論できず、お客様の無理難題に困惑する窓口業務も少なくありません。ちなみに私は、某議員さんから浴びたことがありまして、少々頭にきて反論し、上司に呼び出されたことがあります。議員も税金で食っているはずなんですけどね。

 ちなみに、「お前らは俺が払っている税金で食っているくせに」という方が滞納者というオチも少なくありません。また、公務員は税金が免除されているという思い込みの方もいました。この方、NHKの職員は受信料免除とも思っていました。税金も受信料も払っているんですけどね。

 

信仰の自由とは?

 年に何回かは宗教上のトラブル対応がありました。あまり詳細は書けませんが、要するに「勧誘」ですね。で、勧誘する方とお話をすることになります。

 私のパターンとしては、「信仰の自由を否定するつもりはない。しかし、同様に『個人の自由』も尊重してほしい」ということです。勧誘することが、勧誘されている人の自由を阻害するような場合、それは個人の自由の侵害にあたるはず。つまり、勧誘を拒否する権利も個人の自由であるわけで、それに対し、「罰があたるなどというのは脅迫に近くないですか」ということ。

 日本人の感覚が「八百万の神々(多神教)」と言われるのに対し、西洋の宗教の多くは「一神教」です。自分が信仰している神だけが本物の神で、他の神は神ではないということ。しかし、これは中世の感覚です。

 近代で「信仰の自由」が求められたのは、「一神教同士の対立を防止する」ため。つまり、「信仰の自由という言葉は、一神教が複数存在することで生まれ概念」という逆説。勧誘は否定しませんが、近代的な倫理に基づいて実践してはいかがということ。

 具体的には、「信仰の自由」と「個人の自由」とを同等に尊重すること。

 ただし、宗教や個人という感覚について、西洋は「宗教改革・市民革命・産業革命」という歴史的な背景を持ち、長い時間をかけて育ててきました。日本は、この感覚を「明治維新で輸入し、150年程度の歴史」しかもっていません。だから、未だに「罰が当たるなどの中世的感覚」なのかもしれませんね。

 

医療の場合も難しい

 たとえば、「輸血はできません」という患者にどのような治療をするかです。

 医学と医師の良心から言えば、命が最優先です。しかし、医師の良心を患者に強要するのも問題があります。となると「輸血なしで治療する方法の研究」が一つの発想。ただ、上記のような「緊急時」はどうすればよいかですね。個人の自由と信仰の自由が重なっているという点では、本人の意向を尊重する方向に進む可能性が高いです。

 物事には常に二面性があります。ただ、二面性の負の部分を導くのは人間が悪用するからなんですね。宗教も科学も、経済も教育も。

 

 大きな概念にも負の側面があります。たとえば、「殺人」はいけないことですが、「死刑」という制度があるのはなぜかってことですね。

 そんなことを、学習支援の場で高校生と対話する今日この頃です。