生活困窮者に対する公的支援についての発言ですね。
平たく言うと「働かない人の暮らしを税金で助けるのはいかがなものか」という内容と理解しました。
◆役所にいると、同内容の発言・疑問・価値観を浴びることは少なくない
窓口、電話だけでなく、市民との対話の場でも、この種の発言はあります。
年齢や性別、所得や学歴、地域性や職業には関係ありません。
ただ、このような発言ができるのは、相対的に「高所得者」になります。高卒~大卒以上で、社会的地位もそこそこ高い人になります。
ちなみ、市民だけでなく、議員などからもあります。
◆「そういうことは言うものではない」
場の治め方として、年長者が「そういうことは~」と発言する方法があります。
割と、円満に解決します(笑)。
しかし、「そういうこと」の指示内容を詳しく言語化すれば「みんな、働かない人を税金で支援するのは、いろいろ思っていることがあるけれど」になります。
怖いですね。
◆個人的にはこんな風に考えています
近代以前の西洋では「キリスト教の神」が絶対的な存在でした。
ですから、近代以前の「善悪の判定」は「聖書に依存」していました。
しかし近代になると、価値観の中心が「神」から「人間」に移行します。人間中心主義(ヒューマニズム)の誕生ですね。
すると、「善悪」の判定も「人間主体」で行うことが必要になります。
そのために「自由・平等・公平の概念」が生まれます。ここから「正義・公正・公共」に進み、経済的合理性を「資本主義」が証明する世の中になりました。
つまり「働かない人」「稼げない人」は「悪」なんですね。
「悪」を助けるために「税金(公共資本)」を使うのは「正義」ではないという発想。これを「自己責任論」が支えます。
◆論理的には正しいですが
近代には「存在」という概念もあります。
「生まれたこと」「存在」を承認することが、幸福の根源なんですね。
「働かない」「稼げない」を「悪」とするのは「存在の否定」であり、そこに公共的な支援を実施しないのは「人権の否定」です。
私が民間から公務員に転職した理由の一つは、「近代資本主義・経済的合理性優先」の世の中で「存在を否定されている人々の支援」を採算度外視で出来ることでした。民間であれば、有料サービス×寄付がないとビジネスにならないですから。
◆「そういうこと」を思うことは否定しません
正義・公平・平等などの概念を覚えた時、最初に抱く疑問でしょうから。
しかし、ここから価値観をアップデートしていくことが大切だと思っています。
このアップデートを「できた人/できなかった人」が、「新型コロナ×東京五輪」で表面化したのでしょう。それは、年齢・所得・社会的地位などに関係ありません。
あくまで「個人の価値観・資質」に帰すべき問題です。
ただし、この個人の価値観が「社会的な地位」から発せられた時、「公共」は暴走し、公共ではなくなります。
新型コロナの出口対策は「40歳以下の若手官僚」で作り、これを「天皇親政」で進めるのが良いねと、何とも笑えないZOOM雑談を仲間とする今日この頃。
みなさまには、まず命を守る行動を優先してください。無事を祈っております。