55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

既視感のあるニュース(税金の使い方)

 生活困窮者に対する公的支援についての発言ですね。

 平たく言うと「働かない人の暮らしを税金で助けるのはいかがなものか」という内容と理解しました。

 

役所にいると、同内容の発言・疑問・価値観を浴びることは少なくない

 窓口、電話だけでなく、市民との対話の場でも、この種の発言はあります。

 年齢や性別、所得や学歴、地域性や職業には関係ありません。

 ただ、このような発言ができるのは、相対的に「高所得者」になります。高卒~大卒以上で、社会的地位もそこそこ高い人になります。

 ちなみ、市民だけでなく、議員などからもあります。

 

「そういうことは言うものではない」

 場の治め方として、年長者が「そういうことは~」と発言する方法があります。

 割と、円満に解決します(笑)。

 しかし、「そういうこと」の指示内容を詳しく言語化すれば「みんな、働かない人を税金で支援するのは、いろいろ思っていることがあるけれど」になります。

 怖いですね。

 

個人的にはこんな風に考えています

 近代以前の西洋では「キリスト教の神」が絶対的な存在でした。

 ですから、近代以前の「善悪の判定」は「聖書に依存」していました。

 しかし近代になると、価値観の中心が「神」から「人間」に移行します。人間中心主義(ヒューマニズム)の誕生ですね。

 すると、「善悪」の判定も「人間主体」で行うことが必要になります。

 そのために「自由・平等・公平の概念」が生まれます。ここから「正義・公正・公共」に進み、経済的合理性を「資本主義」が証明する世の中になりました。

 つまり「働かない人」「稼げない人」は「悪」なんですね。

 「悪」を助けるために「税金(公共資本)」を使うのは「正義」ではないという発想。これを「自己責任論」が支えます。

 

論理的には正しいですが

 近代には「存在」という概念もあります。

 「生まれたこと」「存在」を承認することが、幸福の根源なんですね。

 「働かない」「稼げない」を「悪」とするのは「存在の否定」であり、そこに公共的な支援を実施しないのは「人権の否定」です。

 私が民間から公務員に転職した理由の一つは、「近代資本主義・経済的合理性優先」の世の中で「存在を否定されている人々の支援」を採算度外視で出来ることでした。民間であれば、有料サービス×寄付がないとビジネスにならないですから。

 

「そういうこと」を思うことは否定しません

 正義・公平・平等などの概念を覚えた時、最初に抱く疑問でしょうから。

 しかし、ここから価値観をアップデートしていくことが大切だと思っています。

 このアップデートを「できた人/できなかった人」が、「新型コロナ×東京五輪」で表面化したのでしょう。それは、年齢・所得・社会的地位などに関係ありません。

 あくまで「個人の価値観・資質」に帰すべき問題です。

 ただし、この個人の価値観が「社会的な地位」から発せられた時、「公共」は暴走し、公共ではなくなります。

 

 新型コロナの出口対策は「40歳以下の若手官僚」で作り、これを「天皇親政」で進めるのが良いねと、何とも笑えないZOOM雑談を仲間とする今日この頃。

 みなさまには、まず命を守る行動を優先してください。無事を祈っております。

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