55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

沖縄慰霊の日に(6月23日)

 少し日が経ってしまいましたが、少しだけ、この件について

 私も沖縄で暮らすまでは、何も知らない人間でした。

 

なぜ6月23日なのか

 一般的には、沖縄戦が終わった日と認識されています。

 沖縄戦は4月1日に開始されます。アメリカ軍が上陸した日ですね(それ以前に、いくつかの島で戦闘・攻撃はありましたが)。

 その後、司令部があった首里が落ち、南部に追い詰められ、沖縄戦前に配属された日本軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決したのが、6月23日。つまり、日本軍による組織的な戦闘が終結した日が「沖縄慰霊の日」の由来です。

 

沖縄戦の死者は、アメリカ軍によるものだけではない

 日本兵に殺された沖縄の方も多いのです。

 4月、沖縄中部に上陸したアメリカ軍は、中部から北部にかけても侵攻します。

 4月8日、北部・八重岳(本部町)の戦闘がアメリカ軍の勝利に終わると、アメリカ軍はビラをまき対話を求めました。あまり知られていませんが、村には英語を解する人が多くいました(琉球大学からアメリカ留学した学校の先生、移民から戻って来た村長など)。彼らが米軍司令と話し合い、これ以上戦闘を行わないこと、村人はいつも通りの生活を送って良いことなどを相互確認したと言われます。

 この様子を、八重岳の戦闘終了後、ゲリラ戦を展開すると称して山中に籠った日本兵が見ていました。彼らは、本土から派遣された日本兵です、

 

英語をしゃべる村民はスパイである!?

 残念なことですが、彼らの価値観は、アメリカ兵と英語で会話する日本人を認めることができません。そして、英語を話す村民、アメリカ兵と話し合いに参加した村長や先生を「スパイ」と決めつけます。

 そして死刑だとして、その命を狙います。銃を持っていても銃弾はありません。日本刀で斬殺したのです。殺された方のご遺族は、まだご存命です。

 詳しくはこちらを。記事の後半になります。 

neverforget1945.hatenablog.com

 

6月23日以降に亡くなった方も多い

 こうした日本兵による虐殺は、7月になっても続きました。

 6月23日は、あくまで「組織的な戦闘が終わった日」です。その後も沖縄の方々は、日本兵の脅威にさらされながらの日々だったのです。

 その当時を知る人は少なくなりましたが、ご家族、ご遺族はまだご存命です。

 しかし、沖縄の人が自らこうした事実を発信することはありません。

 また、こうした事実を知る本土の人も、決して多くはありません。私の場合は、様々な偶然を経て知ることになりました。結構、つらいものです。 

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 一応、4年間を沖縄で過ごした公務員として、このことを伝えることが使命かなと思う今日この頃です。

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               本部港から伊江島