テーマ「新型コロナの日々に」
少し頭の整理をしておこうかなと思います。
それは「パターナリズム」について
◆目次
「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている」(ウィキペディアより引用)
昔々、父親、医師、警察、学校の先生は「絶対的存在」でした。
彼らの指示に従う。逆らうことは許されない。
逆に言えば、彼らの言うことに従っていればいい。自分で考えず依存もできる。
これがパターナリズムですね。封建的な価値観です。
個人の自由と自己決定権の尊重
パターナリズムの限界は、「強い立場」の者が間違った判断をする、判断力に欠ける、恣意的な判断をした時に、それを正すことが難しいことにあります。
君主が女性に狂うと「唐」だって滅びるということ。
これではイカン…というわけで、人類は長い時間をかけて考えました。
やがて、ルネサンス・宗教改革を経て、イギリス・フランスで革命が起き、王政が倒れます。封建制度の終焉ですね。
そして、近代国家が誕生します。
国民、患者、子供、生徒は「自己決定権」を持ちます。
首相が「アホ」でも、国民の自治によって国家の治安・経済・教育は守られるようになりました(「民度」ってヤツですね)。
自己決定権によって多様性が拡大する
自己決定権によって拡大した多様性を守るためにローカルルールが作られます。
例えば、共通テストは約50万人が受験します。
試験ですから「公平な実施」が必要。ですから、受験生の自由は少し制限されます。(パターナリズム)
一方で、マスクが着用できない人には個別な配慮を行い、別室で受験できるようにします。(個人の自由の尊重)
個別の配慮は事前申請が原則ですが、当日であっても受験する権利を優先して、個別の配慮があります(受験機会の尊重)。
例えば、受験票を忘れても受験できます。50万人が受験するのですから、勘違いや思い込みで当日トラブルを起こす人もいるでしょう。そのために別室も用意していたはずです。
というわけで、ローカルルールには「相反する二面性」が内在します。
①共通テスト実施を公平に実施するために、少し自由を制限すること。 (自由の制限)
②受験と言う一生を左右する場面において、個人の事情に配慮すること。(自由の拡大)
鼻にマスクをしていない受験生に対して
運営側の対応は、ローカルルールの原則に沿ったものです。
①公平な実施(受験生の安全確保も含む)のためのルールに従うことと求める(自由の制限)
②個人の事情に配慮し、別室での受験を提案する(自由の拡大)
「政治家だって鼻を出していた」という主張は、共通テストの会場では認められません。政治家だって共通テストの会場では、共通テストのルールが適用されます。
つまり受験生は個人ですが、受験会場では受験生ですから、制限された自由の中に存在するのです。
個と公共の関係性
①50万人が受験する共通テストの「公平性」の確保のため一部の自由を制限します
(公共の確保)
②しかし、自由の制限された部分について、配慮をすることができます
(個人の自由という権利)
③配慮を希望する場合は、受験生が自ら申し出るのが原則です
(自己決定権の尊重)
↓
運営側は、この原則より拡大した配慮を行っています。
それは、「運営側からの別室受験の提案」です。受験生の権利=個人の自由への最大限の配慮です。
受験生の価値観
受験生は「パターナリズム」にとらわれいます
ですから、個と公共の関係性の
「②、自由の制限された部分への配慮があること」
「③、配慮は自ら申し出ること」が理解できません。
個の自由と自己決定権とが価値観として身に付いていないのですね。
ですから「別室受験の提案」を、個人への「配慮」「権利」と捉えることができません。
受験生は「別室受験の提案」を、監督官の「命令」「義務」と認識してしまうのですね。
だから、受験生は「警告」に対し「命令には従わない」、「配慮」に対し「そんな義務はない」と頑なな姿勢を崩そうとしない…結局そういうことだと思います。