テーマ「読書」
つれづれなるままにひぐらし…ですね。
ちょっと心がざわついてふと手に取ると、いろいろ感情移入してしまいました。
年を取り、世間と距離ができてからの読み直しです。
◆つれづれなるままに…
現代語訳は「ひまで他にやることない」となっています。
なぜ「ひま」なのか…
世間から忘れられているからですね(笑)。
「やることがない」とはどういうことか…。
「やりたいことができない」という読み換えも可能かもしれません。
年を取ると、「同じ失敗を繰り返すな」と言いたい衝動に駆られることがあります。しかし、それを伝えようとすることは「老害的行為(自己の経験の押し付け)」、失敗からの学びは「本人」しだい、世直し的言動をすることは恥…ということも年を取ってわかっています。
そこで、心に浮かぶことを書きなぐってみるということですね。
そうすることで、心の整理ができ、落ち着くのです。
◆仁和寺の法師
仁和寺は、兼好の自宅から距離はありますが、見下ろす位置にありました。
当時の仁和寺は、勢力・権力・武力を併せ持つ巨大な存在で、人々の「範」となるべきもの。
しかし、宴会で騒ぎ、調子に乗って「鼎」を被って抜けなくなるとか…感染症対策を発表した日の夜に「会食・宴会」をするとか…、兼好からすれば「何かイライラする」ことが多かったのですね。
一言で言えば「仁和寺の常識と世間の常識が食い違っている」「子供っぽい」わけで、もっと身を律しないと「大きな失敗をするぞ」という思いを伝えたかったのかもしれません。
世間が乱れたり、天災に襲われた時、宗教はその原因を「日頃の行いが良くない民間人」とする無意識の発想を持ちます。しかし真相は「自分がクソ」だった。つまり「宗教に携わる者の不信心が原因」なのだぞというオチ。
ひょっとすると、兼好もかつて「自分がクソ」だったというオチの経験者??
だとすれば、「自省・自戒」を込めて書き綴っていたのかもしれません。
◆先達はあらまほしきことなり
念願の「石清水八幡宮」参詣を果たし、本人は大満足。
しかし、よく話を聞くと途中で引き返しており、本殿にお参りはしていない。
他者から見れば「無知、思い込み」とわかりますが、本人が自覚することは難しい。だから「経験のある人、知識のある人」の言うことをよく聞きなさいという言葉。
「感染症に詳しい人」「経済のことをよくわかっている人」の言葉に耳を傾けなさいということですね。
そうでないと「途中だったことに気付かず終わらせてしまう」「感情に流されて、客観的な判断ができなくなる」「思い込みにとらわれて、物事の本質に気付くことができない」という過ちを犯しますよ…。
そんな警告かもしれません。
同時に、年を取った兼好は「自己の命について導てくれる先達」を求めていたのかもしれません。
そんなことを、つれづれなるままに思う今日この頃です。
(仁和寺ではありません。長野県の善光寺)