テーマ「新型コロナの日々に」
災害は「社会課題」を可視化します。
今日が月命日でもある東日本大震災が代表的なもの。
災害復旧には「社会課題」の解決も必要で、それ故に「復興」という言葉が使われたと言えます。新型コロナも同じですね…。
◆目次(新型コロナの終息を阻むもの)
課題の存在を認めない人がいる
◆現場には「課題解決」のスペシャリストがいるはずですが…
課題解決が進まないのは「課題の存在を認めない人」の存在。
例えば「人口減少」という課題を認めない人っているんです(笑)。
「何で人口が減るのだ」とそもそも論から始まり、「何で今になって言い出すのだ」と責任論に進みます。
というわけで「人口減少という課題解決・対応・幸福な街づくり」は、公的な仕事・議論になりません。
場当たり的な対処療法か、他の地域がやっている方策やイベントをコピーするくらいしかできないのです。
◆新型コロナでも同じような現象を感じます
未知な情報・不利な状況を「自分を否定するもの」と認知して、拒否する人っています。
このタイプの人が「上司」「オピニオンリーダー」だと、解決には向かいません。
まず、有能な人から順番に「退職・転職・異動」を考え始めます。
また「オリンピック中止のシュミレーション」はこっそりすることになります。
大きな概念が困っている人の救済のじゃまをする
◆「赤ひげ診療譚(山本周五郎)」では…
通称「赤ひげ」は、貧乏な人に無料で診療しますが、大名にはとんでもない高額の治療費を請求します。
これは「平等・公平という大きな概念」に反しますね(笑)。
しかし、「患者の地位・身分・経済力に関係なく治療を行う」という観点では「医師としての社会的責任(医療を全ての人に届ける)」を果たしています。
学校の先生も「数学のわかない子供」に手をかける、「美術の才能がある子供に高度な助言をする」ことがあります。個々への対応ができる良い先生です。
しかし「平等・公平ではない。特定の生徒にひいきをする」と指摘され、処分されることがあります。
◆新型コロナでも同じような現象がある
困っているところに支援しようとすると「不公平だ」「平等の原則に反する」という反論が出ます。
例えば「10万円の一律配布」で「富裕層には配布すべきではない」という論点がありました。議論のために実施が遅くなる、配布しても「使うことに罪悪感」を感じて貯め込んでしまうなどの現象が生じました。
つまり「大きな概念や正義感」は「困っている人に届ける」「お金を回す」という本来の目的の達成度を低下させることがあるのです。
「困っている人を救済すること」で「平等・公平な社会を実現する」はずですが…。
「平等・公平という大きな概念や正義感」が先になると「困っている人は自己責任」になります。
これが今の日本社会と、自粛警察かもしれません。
新型コロナに「ボランティア」はない
◆ボランティアに感謝
自然災害の場合、まず「自衛隊・保安庁・警察・消防・病院」などの公的インフラが「救助・救援・支援」を実施し、一定の段階を過ぎると「地元住民による復旧」にシフトしていきます。
このシフトチェンジの段階で「ボランティアの支援」が入ります。
ボランティアの活動は、地元住民だけでは不足する「マンパワー」と、「公的な支援が難しい困りごと」の解決を導きます。本当に感謝です。
◆新型コロナはボランティアでは対応できない
医療の現場は、専門家しか入れません。教育・介護・福祉の現場も以下同文。
そもそも感染症ですから、人の動きは最小限度に留めることが優先。
ですから、自然災害のような「ボランティア」の動員ができません
終息が見えず、どんなに疲れていても、最初から最後まで専門家だけでやり切るしかないんですね…。申し訳ないです。
まとめ
1,「新型コロナ」という課題の存在を認める
2,「困っている人を救済する」という視点の優先
3,「マンパワーを増やす以外」の支援策
4,「感染は自己責任~自粛警察」の正義感から離れる
(昔の行きつけのお店の「コムタン」です)