テーマ「戦争経験を話したがらない人々」
終戦記念日なのか、敗戦記念日なのかという議論があります。
前提となる視点が「日本」であれば「敗戦の日」。
前提となる視点を「世界」とすれば「第二次世界大戦の終わりの日に、地球上から戦争がなくなること、つまり終戦を祈念する日」とも言えます。
◆戦争経験を話したがらない人々
両親は昭和一桁生まれ。
この世代「軍に所属して戦場経験のある人」「戦争経験をした人」「戦時を生きた人」に分けられます。
父は「戦時に生きた人」。軍隊には行っていません。空襲の経験もありません。あるのは工場動員、戦中戦後の食糧難、学生時代に勉強ができなかったこと、兄4人が戦場で亡くなったことです。これは私を叱る時「そういう時代の人に比べてお前は」という言葉で語られました。
母は「戦争経験をした人」。「火垂るの墓」に描かれる神戸大空襲の中で逃げ惑った経験を持ちます。グラマンの操縦士と目が合った時の恐怖、焼夷弾が降ってくる音、亡くなった女学校の友人の話を断片的に聞いたことがありますが、積極的に話すことはなかったです。私の記憶に強く残っているのは、NHKの朝ドラで東京大空襲のシーンになった時、母の身体が震え、悲鳴をあげてその部屋からいなくなったこと。
戦場・戦争を経験した人は、あまりのそのことを話したがらないのです。
もちろん、全国各地に使命感を持ち、戦争・原爆・沖縄戦などの語り部となって伝えて下さる方はたくさんいらっしゃいます。こうした体験を言葉にする、人に語るということは、想像以上に難しく、負担のあることだと思います。
◆就職したころ(バブル世代です)
会社が、大なり小なり「体育会系」だった時代です。体育会的な価値観を理解し行動できる人間が「使える人間」という時代。
そんな時代に「温厚で柔らかい上司」が稀に存在しました。部下を管理するのではなく、部下に好きなようにやらせるタイプ。ちなみにお酒好きで、斗酒辞さない方が多かったです。
そんな上司の共通点は戦場経験があること。神宮の学徒出陣に参加した、特攻隊の生き残り、関東軍で満州に派遣されシベリア抑留から生還、終戦時に平壌から徒歩で朝鮮半島を横断して釜山から船に乗って生還…など壮絶な体験をされていました。一緒に雪かきをした時「今日の雪は軽くて楽ですね」と声を掛けると「そうだね、シベリアでは雪が凍り付いていてね…」と返ってくる、そんな会話の中で「戦争」を知るのです。ただ、そこから先は語ってくれません。代わりにお酒を飲むだけです。
◆話したがらない理由が何となくわかったのは…
東日本大震災を経験したことです。
当時東北勤務だった私は、石巻、南三陸、閖上、気仙沼、陸前高田などの現場を見ました。震災前の風景も知っていましたから、被災地のあまりにも非現実的な景色を見て混乱しました。そこに原子力発電所のトラブルが重なります。
ここで見たもの、聞いたこと、知った現実は、人間の尊厳・生死・存在に深くかかわることです。人々の怒り・哀しみには行き先がなく、被災度の差異(大小)によって我慢を強いられ、周囲からはただ頑張れ、前を向けと言われて悲しむ余裕もない…。
そんな中、今までの暮らしを奪われた喪失感、生き残ってしまった罪悪感、先が見えない絶望感を抱えつつ生きてゆかなければならない。支援に感謝の言葉を述べ、頑張れと言われて笑顔を作らなければならない。そんな「日常」が10年近く経過した現在も続いています。
そんな「日常」に正解はありません。喪失感・罪悪感から解放されることもありません。記憶と思いは、誰に語られることもなく、言葉になることもなく、その人の心の深い場所に沈殿していくだけです。
そんな思いを抱えている時、沖縄赴任がありました。人々が、戦争のことを語りたがらない気持ちとの感覚的な共感がありました。ああ、これだったのか…という気持ちです。震災と戦争とは異なるものですが、そこで生き残ってしまった者が生涯背負っていくものには、構造的な共通性があるような気がしたのです。
neverforget1945.hatenablog.com
◆どうやって伝えていくか
戦後75年。戦争の体験を直接聞くために残された時間は少ないです。
一方で、75年経ったことで、語ることができるようになることがあるはずです。時間が立つことで解かれる封印、新事実の発見などがあるはずです。それは、日本人にとってあまり都合の良い内容ではないと思います。
例えば、沖縄で日本軍が何をしたのか。そもそもなぜ日本は戦争に突入していったのか。止めることができなかったのか…。そういう「痛みを伴う振り返り」をすることが必要だと思うのです。それが「戦争を知らない世代が伝えていくこと」になるのかもしれない…と震災の経験から思います。
つらく、しんどいことですけどね。
という長い話になってしまいました。
今日なので、少しお許しください。