55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

広島・長崎の日に

テーマ「かみ合わない議論の相互理解」

 原子エネルギーが兵器として実戦利用されて75年。

 それでも、この件について「かみ合わない議論」が繰り返されているような気がします。

◆目次

私と広島原爆とのかかわり

 広島に原爆が落ちた翌日、父の兄が広島に入ったそうです。

 父の兄は出征していました。広島市近くの軍隊に所属しており、原爆投下翌日、広島市内で救援、片付けなどの任務に就いたそうです。終戦後、実家に戻りましたが体調が思わしくなく、2年後口から血を吐いて亡くなったそうです。

 当時、死因は不明とされました。しかし、白血病には歯茎からの出血という症状があります。これは憶測にすぎませんが、ひょっとすると放射能の影響だったのかもしれない…という話です。

 

原爆投下が戦争を終結させたという主張

 2つの原爆投下によって日本は終戦を決意した。もしなかったら本土決戦になっていたわけで、そうなるともっと大きな被害があっただろう。また、本土決戦になっていれば、現在の日本の領土もどうなっていたかわからない。あれはあれで、仕方がなかった。日本も真珠湾を騙し討ちしたんだから原爆投下だけを責めることはできない。

 

広島・長崎からのメッセージ

 原爆投下は二度とあってはならない。その原因となった戦争もあってはならない。核兵器を地球上からなくそう。私たち人類は二度と過ちを繰り返してはならない。平和を守り、考え、伝えていこう。

 

原爆投下に関する議論を始めると…

 上記の意見が対立し、それぞれの正当性を主張し始めます。

 議論は「原爆投下が戦争を終結させた」が優勢で、意図しないうちに「原爆投下の正当性」に派生していきます。

 原爆投下について議論する目的は、どちらが正しいかを争うことではないはずです。

 また、議論(ディベート)には「論理的な証明がしやすい主張」と「正当性の証明が難しい立場」があります。この議論では「原爆投下によって戦争が終わった」という主張の方が「論理的な証明」がしやすく「議論に勝ちやすい」のです。このような「議論のレトリック」が、原爆投下の結論になってしまうのです。

 しかし「論理的な正しさ」と「科学・道徳の正しさ」とはイコールとは限りません。

 仮に「原爆投下によって戦争が終わった」という主張が「論理的に正しい」としても、「だから、また戦争が起きたら、原爆投下で終結に導こうという結論」に進んではいけないのです。

 

前提、立場、視点の差異を確認する

 「原爆投下が戦争を終結させたという主張」は「原爆投下の正当性」に派生し、アメリカ軍の判断は正しいという結論になりがちです。この結論の「前提」は「アメリカの立場」「戦争中の判断」「科学の負の側面の認識が浅かった時代の価値観」になります。

 言い換えれば「自己・自国の利益の実現」という「限定された条件下」の主張です。その先にあるのは「自己の正当性の証明」「過去の正当性の証明」です。

 また「正当性の証明」「過去という時間」の範囲で行われる「狭く深い思考」とも言えます。これが「狭さ(具体性)」だけで、「深さ(抽象性)」のない思考になると、結論をミスリードする可能性が生まれます。

 一方で「核廃絶・平和」のメッセージは「メタ思考」です。ここから導かれるのは「過去の過ち」を認め「あるべき未来を創造するメッセージ」になります。「抽象度が高い思考」ですね。この「抽象度が高い思考・表現」は、発信側だけでなく、この言葉を受け取る側にもリテラシーが求められます。このあたりが難しいですね。

 

前提が異なる議論は…

 前提が異なった状況の議論はかみ合いません。

 まず、前提の差異を相互理解し合う必要があります。この場合だと、「原爆投下が正当化されたのはなぜか」を考えること。その上で「(人類が)二度と同じ過ちを繰り返さない」という主張が生まれた経緯から始まり、「戦争」「核兵器」「平和」と言った「抽象度が高い概念」を具体化すること、具体的に考えること、日常に落とし込むことなどが必要ではないかと思います。

 つまり、前提が異なる主張を戦わせるのではなく、それぞれの主張の持つ前提を理解し、そこから思考を深めていく方向性を見出して欲しいということです。

 

もし私が大本営の参謀だったら

 太平洋戦争後半戦の日本、前提を「本土決戦の準備」とするならば、硫黄島沖縄戦特別攻撃隊戦艦大和の出陣などを立案・実行する可能性は高いと思います。もちろん「これは人間としてやってはいけない」「この戦いに日本が勝利する可能性はほぼない」というメタ思考は働いていると思います。しかし、立場や周囲の空気感がそれを抑圧し、無謀な作戦案を提出する可能性は高いと思います。

 これが「過ち」なんですね。

 これを繰り返さないこと、立場や空気感から離れ、メタ的に物事をとらえ、そこで感じたことを素直に言葉にして周囲に伝えること…これが、とても大切なことではないかと思っています。

 

 

 過日、高校生と対話の機会をいただきました。 

 そこで感じたこと、伝えたことを、ここにメモしておきます。