テーマ「自分で自分の機嫌を取る」
見ず知らずの女性に「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と暴言を吐いて立ち去った高齢男性のことが話題となっています。
news.yahoo.co.jp
この記事からいろいろなことを考えましたが、感じたのは、年を取ることの難しさ、自分が「暴言を吐く側」になってしまうことへの恐怖です。
◆目次
我慢しなさいと言われて育った世代
「あの人はわがままだ、我慢ができない人だ。」という言葉に屈辱を感じる人は、年齢が上の世代ほど多いような気がします。それは世代が上であるほど、子供時代から「我慢」を強いられてきたからです。
例えば「ドラえもん」。
「ドラえもん」は「未来からきた倫理ロボット」。その任務は「勉強嫌い、弱虫、怠け者なのび太という少年」を「大人にすること」です。ドラえもんがのび太にける言葉(倫理)には「我慢が足りない、我慢しなさい」が多いことにお気づきでしょうか。ドラえもんは、のび太を「我慢して勉強し、勇気をもって不正と戦い、勤勉に働く大人」に教育しようとしているのです。
我慢の末に
我慢の末に「ご褒美」「ご慰労」があれば良いのですが、そうでない場合も多いです。
結果は出なかったとしても、せめて自己犠牲が報われる、認められる、評価されるならば、少しは救われます。しかし「結果がすべて」「甘え」「我慢が足りない」と完全否定されることも多いです。完全否定されても、それを乗り越えることが成長とも言われます。こうした価値観に支配され、過重業務を個人の長時間労働でしか解決できない状況は人を追い詰めます。ドラえもんなら「我慢が足りない」と言いつつ「しずかちゃんと結婚」という「約束された未来」を提示してくれるのですけどね…。
背景にある価値観
「不機嫌になる理由の一つは、自分のなしたこと、自分の産んだことが人の役に立っていないと感じることだ。
だから、不機嫌な老人がいる、一方で輝く青春の真っ只中にいる若い人が不機嫌なのは、自分が社会の中で生産的な立場になることがまだなかなか難しいからでもある。
従って、いつも機嫌よく生きていくコツは、人の助けになるか、誰かの役に立つことだ。そのことで自分という存在の意味が実感され、これが純粋な喜びになる」
これはニーチェの言葉。
しかし、この言葉に内在する価値観に閉じ込められてしまうと、リタイアした高齢者は不機嫌にしかならないですね。そういえば、「徒然草」からは「兼好法師の不機嫌さ」を感じます。「清少納言」が「枕草子」に記した「定子様の役に立ったこと」を読んで不機嫌になる若い人もいます。
この価値観からは離れたいですね。
自分で自分の機嫌を取る
先日記したように、今月から、大学入試問題(国語・世界史)に取り組み、数学の学び直しも始めました。
「例えば、外国語を学んで、まだ少ししか話せない人は、すでに外国語に通じて流暢な人よりも、外国語を話す機会をとてもうれしがるものだ。こういう風に、楽しみというものは、いつも半可通の人の手にある。外国語に限らず、やり始めた趣味は、いつも楽しくて仕方がないものだ。けれども、そうであるからこそ、人は学ぶことができる。つまり大人であっても、学ぶ楽しさを通じて何かの達人になっていくのだ。」
これもニーチェの言葉。
私に必要なセルフケアは、人と関わること、誰かの役に立つこと、社会貢献ではないようです。
学ぶ楽しさを通じて自分の機嫌を取るのが、私のセルフケア。
問題に取り組む楽しみ、正解の喜び、できなかった問題が解けるようになる快感…。
学び直しには、過去の自分から脱皮し、新しい自分の可能性が広がっていく感覚があります。そこに「今まで強いられてきた我慢」はあまり感じません。映画・音楽・読書も良いのですが、「学び直し」以降、心の安定度が高まってきました。
生涯教育、リカレント教育とは「自分の機嫌を取るため」のものでもあるようです。学びに終わりはないって、こういう意味だったんですね。
「ニーチェの出典」はこれ。私にとって、古典・哲学を学ぶことも大切みたいです。