55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

小泉八雲生誕170年

テーマ「6月27日は、小泉八雲の誕生日」

 英名「ラフカディオ・ハーン」、日本名「小泉八雲

 今日は、彼の誕生日。しかも生誕170年の記念の日です。

 

夏目漱石小泉八雲の不思議な縁

 

 小泉八雲が松江、熊本、そして東京で暮らしていたことは多くの方がご存じと思います。そして、夏目漱石も、熊本、東京で暮らしていました。

 17歳違うこの二人の運命は、微妙にかかわるのです。

www.hearn-museum-matsue.jp

 小泉八雲は、松江の暮らしを愛しました。しかし、冬の寒さに耐えかね、温暖な熊本へ移住します。熊本では「第五高等学校」(校長:嘉納治五郎)の英語教師として働きますが、数年後、八雲はその職を辞し、神戸で新聞記者となります。

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                     小泉八雲、熊本時代の旧居の書斎) 

 

 八雲が熊本を去って二年後、松山中学校の英語教師が第五高等学校に赴任してきます。この英語教師が「夏目漱石」。

 漱石は、熊本で結婚し、寺田寅彦らの教え子を集めて俳句を楽しんでいました。しかし1900年、文部省から「英語教育法研究」のためのイギリス留学の命令が下り、英国に出発します。

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                      夏目漱石、熊本時代旧居の書斎) 

 

 文部省が、漱石を留学させた目的は、日本人の英語教師の育成。

 これは、帝国大学を立ち上げた時からの計画。つまり、最初は、外国人教師を招聘して日本人の教育を依頼し、そこで教育を受けた日本人が、東京帝国大学の教師になっていくということです。

 その頃、小泉八雲は、神戸の新聞社を辞し、日本に帰化して「小泉八雲」となり、東京帝国大学の英語教師になっていました。

 やがて漱石の帰国が決まると、小泉八雲東京帝国大学を解雇になり、後任には漱石が迎えられます。

 

 漱石自身は、自分が後任となる件につき、妻の境子にこのように伝えています。

小泉先生は英文学の泰斗でもあり、又文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜に据わったところで、とうていりっぱな講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない」

 

 この漱石の懸念はあたり、小泉八雲を慕う教え子たちは留任運動や、漱石の授業ボイコットをしたと言われます(その一人に、若き日の小山内薫がいました)。

 漱石自身も片腕の学生に「懐手をするのは失礼だ」と失言し、「その、私もない知恵を出して授業をしているので~」と言い訳をしたりでなかなか苦労が多かったようです。しかし、「シェイクスピア」の講義で人気を得て「早稲田の坪内逍遥先生よりすごい」言われ、徐々に英語教師として帝国大学での評価を固めていきます。

 

 「三四郎」(夏目漱石1908年連載)には、こんな記述があります。

 赤門を這入つて、二人で池の周囲を散歩した。其時ポンチ画の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此周囲をぐる/\廻つてあるいたんだと、恰も小泉先生に教はつた様な事を云つた。何故控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解るぢやないか。話せるものは一人もゐやしない」と手ひど痛い事を平気で云つたには三四郎も驚いた。

 この「池」が、通称「三四郎池」。東大校内にあります。

 小泉八雲だけでなく、漱石自身も講義の合間、ここで時間を過ごすことがあったとか。

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                             (現在の三四郎池)

 熊本には、漱石、八雲、それぞれの旧宅が保存されて残っています。

 都内にも、漱石の旧宅、八雲の終焉の地があります。

 もう少し落ち着いたら、また歩いてみたいと思います。