55歳で退職したおじさんのブログ

投資・副業・役職経験のない平凡なサラリーマンでした。贅沢しなければ辞めても暮らせる程度に貯まったので早期退職。「健康で文化的なビンボー生活」を楽しみつつ、旅行、沖縄、小説、アーリーリタイア、健康、メンタルヘルス、シニア、ライフスタイル、不動産購入、ブログ、日々の暮らしなど記していきます。

パターナリズムと鼻マスク…

テーマ「新型コロナの日々に」

 少し頭の整理をしておこうかなと思います。

 それは「パターナリズム」について

◆目次

パターナリズム(父性主義、家父長制)

 「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている」(ウィキペディアより引用)

 昔々、父親、医師、警察、学校の先生は「絶対的存在」でした。

 彼らの指示に従う。逆らうことは許されない。

 逆に言えば、彼らの言うことに従っていればいい。自分で考えず依存もできる。

 これがパターナリズムですね。封建的な価値観です。

 

個人の自由と自己決定権の尊重

 パターナリズムの限界は、「強い立場」の者が間違った判断をする、判断力に欠ける、恣意的な判断をした時に、それを正すことが難しいことにあります。

 君主が女性に狂うと「唐」だって滅びるということ。

 これではイカン…というわけで、人類は長い時間をかけて考えました。

 やがて、ルネサンス宗教改革を経て、イギリス・フランスで革命が起き、王政が倒れます。封建制度の終焉ですね。

 そして、近代国家が誕生します。

 国民、患者、子供、生徒は「自己決定権」を持ちます。

 首相が「アホ」でも、国民の自治によって国家の治安・経済・教育は守られるようになりました(「民度」ってヤツですね)。

 

自己決定権によって多様性が拡大する

 自己決定権によって拡大した多様性を守るためにローカルルールが作られます。

 例えば、共通テストは約50万人が受験します。

 試験ですから「公平な実施」が必要。ですから、受験生の自由は少し制限されます。(パターナリズム

一方で、マスクが着用できない人には個別な配慮を行い、別室で受験できるようにします。(個人の自由の尊重)

 個別の配慮は事前申請が原則ですが、当日であっても受験する権利を優先して、個別の配慮があります(受験機会の尊重)。

 例えば、受験票を忘れても受験できます。50万人が受験するのですから、勘違いや思い込みで当日トラブルを起こす人もいるでしょう。そのために別室も用意していたはずです。

 というわけで、ローカルルールには「相反する二面性」が内在します。

①共通テスト実施を公平に実施するために、少し自由を制限すること。 (自由の制限)

②受験と言う一生を左右する場面において、個人の事情に配慮すること。(自由の拡大)

 

鼻にマスクをしていない受験生に対して

 運営側の対応は、ローカルルールの原則に沿ったものです。

 ①公平な実施(受験生の安全確保も含む)のためのルールに従うことと求める(自由の制限)

 ②個人の事情に配慮し、別室での受験を提案する(自由の拡大)

 「政治家だって鼻を出していた」という主張は、共通テストの会場では認められません。政治家だって共通テストの会場では、共通テストのルールが適用されます。

 つまり受験生は個人ですが、受験会場では受験生ですから、制限された自由の中に存在するのです。

 

個と公共の関係性

①50万人が受験する共通テストの「公平性」の確保のため一部の自由を制限します

 (公共の確保)

②しかし、自由の制限された部分について、配慮をすることができます

 (個人の自由という権利)

③配慮を希望する場合は、受験生が自ら申し出るのが原則です

 (自己決定権の尊重)

 ↓

 運営側は、この原則より拡大した配慮を行っています。

 それは、「運営側からの別室受験の提案」です。受験生の権利=個人の自由への最大限の配慮です。

 

受験生の価値観

 受験生は「パターナリズム」にとらわれいます

 ですから、個と公共の関係性の

 「②、自由の制限された部分への配慮があること」

 「③、配慮は自ら申し出ること」が理解できません。

 個の自由と自己決定権とが価値観として身に付いていないのですね。

 ですから「別室受験の提案」を、個人への「配慮」「権利」と捉えることができません。

 受験生は「別室受験の提案」を、監督官の「命令」「義務」と認識してしまうのですね。

 だから、受験生は「警告」に対し「命令には従わない」、「配慮」に対し「そんな義務はない」と頑なな姿勢を崩そうとしない…結局そういうことだと思います。

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ブログを2日間お休みしました

 お手伝いしている学習支援で、医学部小論文のアドバイスの依頼があり、取材や模範解答の作成をしていました。

 この手の「書く作業」をしている時、並行してブログを書くというのは、結構難しいですね。小論文の模範解答作成で頭がいっぱいになります。

 …そもそも、私は先生でも理系でもないのに何をしているんでしょうか(笑)

 何となく、医療・福祉行政の端っこにいたことはありましたけど…。

小論文で問われるのは…

 医師としての適性ですね。医は仁術ってことです。

 ゲーム的なケーススタディでは

 ・輸血が必要な患者が3人いる。ところが血液が2人分しかない。

 ・すぐに処置しないと危険な状況だが、患者には支払い能力がない。

 ・告知をしないと適切な治療ができないが、告知を望んでいない。

 みたいな感じですね。

 

医師の考え方

 ・3人とも助ける方法を考える

 ・まず、命を救う

 ・患者と家族が人生をどのように考えているかを探る

 だそうです。

 こうした「医療関係者の善意」が、今の日本を支えていることを実感します。

 

医師に求められる資質を根拠に考える

例)世間の価値観はこのように異なります。

 ・祖父母 告知は自分にも、家族にも不要。

 ・両親  自分には告知して欲しい。しかし、家族に告知はできない。

 ・子供  告知って必要でしょう。

   ↓  

 医師には、多様なニーズに応える知識・技量・人間性が求められる。

 

例)重い障害があって、自分では身体を動かすこと、意思表示をすることもできないので、何とかしてほしい(寿命を縮めてもいい)というリクエストに対して…

   ↓

「どんな状況にあっても、人間は尊厳を有しており、幸福に生きることができる」というのが、医療人のモラルである。

 

受験勉強について

 大学の理学部を出てから、医学部に編入した経験のある方に聞くと

 ある現象に対し…

 ・理学部→ 証明することが求められる  → 深く考えることが必要

 ・医学部→ 結びつけることが求められる → まず知識が必要

 そもそも、医学は膨大な知識量を飲み込むことから始まるからね…と言います。

 もちろん、暗記するために「関係性を構築して理解する営み」を頭の中で作るそうですが、それよりも「単純な暗記を進めるタイプ」の方が、医学部受験にはあっている方だそうです。

 一方で、医学部受験生に求められるのは「命とは」「生きるとは」「幸福とは」から始まる「そもそも系思考力」。科学の進歩に対して「倫理」が追いついていないことが、多様な価値観の背景にあるわけで、このあたりが医師としての人間性やモラルのベースになるんですね。

 

医師という職業の価値

 お仕事でおつきあいのあった医師の方々には、確かに難しい部分がありました。

 それを「頭のいい人ってさ(笑)」で片づけてはいけないと思っています。

 命を預かりながら、多様な価値観にも接しているのです。中には、患者自身が命や幸福の価値を否定することもあるでしょう。

 これは、医師や医学の否定なわけで、そのストレスは…だと思います。

 

 今回の機会は、医師と言う職業の意味や価値を再認識することになりました。

 仕事を辞めてわかる、仕事の価値ですね(笑)

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徒然草(吉田兼好)を読み直す

テーマ「読書」

 つれづれなるままにひぐらし…ですね。

 ちょっと心がざわついてふと手に取ると、いろいろ感情移入してしまいました。

 年を取り、世間と距離ができてからの読み直しです。

 

つれづれなるままに…

 現代語訳は「ひまで他にやることない」となっています。

 なぜ「ひま」なのか…

 世間から忘れられているからですね(笑)。

 「やることがない」とはどういうことか…。

 「やりたいことができない」という読み換えも可能かもしれません。

 年を取ると、「同じ失敗を繰り返すな」と言いたい衝動に駆られることがあります。しかし、それを伝えようとすることは「老害的行為(自己の経験の押し付け)」、失敗からの学びは「本人」しだい、世直し的言動をすることは恥…ということも年を取ってわかっています。

 そこで、心に浮かぶことを書きなぐってみるということですね。

 そうすることで、心の整理ができ、落ち着くのです。

 

仁和寺の法師

 仁和寺は、兼好の自宅から距離はありますが、見下ろす位置にありました。

 当時の仁和寺は、勢力・権力・武力を併せ持つ巨大な存在で、人々の「範」となるべきもの。

 しかし、宴会で騒ぎ、調子に乗って「鼎」を被って抜けなくなるとか…感染症対策を発表した日の夜に「会食・宴会」をするとか…、兼好からすれば「何かイライラする」ことが多かったのですね。

 一言で言えば「仁和寺の常識と世間の常識が食い違っている」「子供っぽい」わけで、もっと身を律しないと「大きな失敗をするぞ」という思いを伝えたかったのかもしれません。

 世間が乱れたり、天災に襲われた時、宗教はその原因を「日頃の行いが良くない民間人」とする無意識の発想を持ちます。しかし真相は「自分がクソ」だった。つまり「宗教に携わる者の不信心が原因」なのだぞというオチ

 ひょっとすると、兼好もかつて「自分がクソ」だったというオチの経験者??

 だとすれば、「自省・自戒」を込めて書き綴っていたのかもしれません。

 

先達はあらまほしきことなり

 念願の「石清水八幡宮」参詣を果たし、本人は大満足

 しかし、よく話を聞くと途中で引き返しており、本殿にお参りはしていない。

 他者から見れば「無知、思い込み」とわかりますが、本人が自覚することは難しい。だから「経験のある人、知識のある人」の言うことをよく聞きなさいという言葉。

 「感染症に詳しい人」「経済のことをよくわかっている人」の言葉に耳を傾けなさいということですね。

 そうでないと「途中だったことに気付かず終わらせてしまう」「感情に流されて、客観的な判断ができなくなる」「思い込みにとらわれて、物事の本質に気付くことができない」という過ちを犯しますよ…。

   そんな警告かもしれません。

 同時に、年を取った兼好は「自己の命について導てくれる先達」を求めていたのかもしれません。

 そんなことを、つれづれなるままに思う今日この頃です。

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         (仁和寺ではありません。長野県の善光寺

他者の目線に立つということ

テーマ「新型コロナの日々に」

 医学系小論文のアドバイスを求められています。

 そんなわけで、医学部の過去問を見ていますが、とても面白いです。

 試験問題から、医学・医療の未来に希望を感じます。

◆目次

病院を舞台にした文学作品と言えば

白い巨塔山崎豊子、1967年出版

 ストーリーの軸になるのはこの二人(山崎豊子作品の典型パターン)

 ・財前五郎(次期教授を狙う野心家)

 ・里見脩二(患者を第一に考える研究×臨床医師) 

 二人とも優れた医師であることは共通。違いは…

 「里見」は「患者の目線」に立つことを忘れない。

 患者とその家族の言葉に耳を傾けて心理的な不安を取り去ることを大切にしている。同時に、看護師・検査技師などと連携し、チームで最適な医療を提供することができる。

 「財前」は「医学的な正しさ」を優先する。

 「こうすれば治るという論理」を、医師だけでなく患者にも無意識に強制してしまう。結果、周囲は「財前の権威、実績」の前に言葉を失い、財前のチームは「思考停止した縦社会」に、財前自身は「裸の王様」になってしまう。

 

遠藤周作が提唱した「心あたたかな病院

 遠藤家で、お手伝いさんとして働いていた若い女性が病気となり、余命宣告を受けました。

 「白い巨塔」と同じ時代ですから、本人にはその事実は隠されています。

 遠藤周作は「治らない病気」とわかっていて「つらい検査」「痛みを伴う治療」「身体に管を通されて自由を奪われる状況」に疑問を持ちます。しかし、当時の価値観の中心は「データを取って研究に役立てる」「延命する」…。

 そこで遠藤周作は、「つらい」「痛い」から患者を解放し、自由に過ごすことを優先すべきではないかと訴えるのです。ちょうど「本人告知」「ホスピス」が登場し、QOLという概念が日本にも入って来た頃。

 「大先生のおっしゃる通り(パターナリズム)」から、「患者中心の医療」への移行です。

 

QOLをテーマとした小論文で問われるもの

学問・研究のワナ

 「学者や先生、公務員は世間知らず」という言葉があります。

 学問や研究に没頭すると「論理的な正しさ」「解決の理論」にとらわれてしまうことがあります。

 しかし「論理的に正しければ正しいほど納得できないこと」ってありませんか(笑)

 例えば「臓器移植」は、医学的な解決として「科学的・合理的」なものです。しかし、違和感や抵抗感を持つ方も多いと思います。「告知」も「自分には告げて欲しい」と思いますが、「家族にはちょっと」とためらう方もいます。

 合理性・論理性から最も遠い所にある「違和感・抵抗感・ためらい」が「納得を妨げる」のですね。

 「財前教授」が全てを失うのは、彼の周囲が持った「違和感・抵抗感からの反発」と言えるでしょう。論理的には正しいのですが、倫理的には否定されてしまう。

 そこで「倫理的な医療」、つまり「QOL」の登場となります。

 

患者中心の医療

 医師への適性は「患者の目線に立つこと」から問われるようです。

 医学を志す者は「医学という学問」×「人としてのあり方」両方が問われるのですね。

 「財前教授」のように「研究のワナ」にはまってすべてを失ってしまってはいけません。

 「里見医師」のように「患者中心の発想(教科書+患者から学ぶ発想)」が求められています。もちろん医師ですから、情に流されてはいけませんが…。

 

新型コロナ対応は「国民中心」となっているか

組織として見ると…

 「財前教授化」「思考を失った縦社会化」と感じます(個人の感想です)

 「国民のため」と信じて行動している「裸の王様」のようです。

 ただ、「裸の王様」は周囲が作ることもあります。「首相はこのようにお考えのようです」と触れ回る側近が危険。

 この側近、可能性は二つ。

 側近も「首相のため」と信じている行動している。

 側近は「首相への悪意」を秘めて行動している。

 

財前教授も里見医師も「医学を志した動機」は同じは

 共通テストが終わると、医学部小論文のアドバイスが始まります。

 過去問を見ると「医師としての適性=患者中心の医療」の理解が問われているようです。

 儲かるから、成績が良いから「医師になってみよう」では合格は難しいと思います。

 また「論理的な正しさから自己を見失った財前教授」「患者中心ではあるが、情に流されて医学的な視点を喪失した里見医師もどき」でも困ります(笑)。

 医学部入試では、人間としてとても大切なことが問われるのですね。

 このような試験を突破し、その思いを維持できるなら、日本の医療の未来は明るいと感じます。

 そうそう、こちらも「受験生中心のアドバイス・傾聴」を忘れずに(笑)

 

まとめ

1,医療は「患者中心」の視点を取り入れている

2,世の中全体が「パターナリズム」からの脱却を求めている

3,合理性・論理性より「急がば回れ」の方が「納得」があり「解決率」が高いかも

4,現在の「政府の動き」「政治家の価値観」は?

 

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      非常に厳しい社会状況の中、命の灯を守ってくださる

  医療・教育・福祉・介護・流通・生産など多くの方々に感謝申し上げます

新型コロナとメンタルの関係

テーマ新型コロナの日々に」

 ここ数日のブログを読み返すと、イライラしている自分に気付きます。

 メンタルが荒れている原因は、昔の記憶がよみがえったからでしょう。

 いわば「思い出し怒り」ですね。申し訳ないです。

◆目次

携帯電話料金の値下げに感じること

携帯料金の値下げの目的は何か?

 昇進した上司が、新しい職場で最初にやるのは結果を出して支持を得ること。

 例えば、懸案事項の中から短期間でできそうなことを一つ取り出して、自分の成果にする。

 小さくても「結果」を一つ出すことで、支持・人気を得る。

 携帯電話料金の値下げは、懸案事項の一つ。国民からの支持・人気を得やすい。短期間でできる。通信制度への牽制にもなる。そんな感じでしょうか。

 

通信業界の事情

 5Gがスタートしましたが、研究は6~7Gと進んでいるはずです。

 通信技術の進化は、人口減少に伴う社会課題をテクノロジーで解決するため、今後の社会インフラとして、そして日本が世界で生き残るための重要な技術です。

 携帯料金の値下げはありがたいのですが、それによって企業の収入減~研究費の削減となると、国家的損失を招きます。

 

イライラの原因は

昭和と変わらない政治的手法

 携帯料金の値下げで国民の支持を取り付けたら、本来の目標達成に動く。

 これは、昭和の手法。平時の価値観。

 「富国強兵」「立身出世」が国家の指針、美徳だった頃の価値観。

 ところで今の政府の目標は何でしょうかね(笑)

 

コロナ対策は「手段」か「目的」か

 世論的には、オリンピック実施が「目的」で、コロナ対策はそのための「手段」。

 緊急事態宣言が出てもどこかで「冷めた空気感」が漂うのはそのせいでしょうか?

 手段と目的をはき違えるな…はよく言われる言葉ですけど(笑)

 

もう一つのイライラの原因は

単純な二分法で対立の図式を作る報道

 二分法はわかりやすいのですが、対立・分断・混乱を招くという副作用があります。

 経済か感染対策か、PCR検査をするかしないか、オリンピック開催か中止か…という整理はその通りです。

 しかし、「ではどちらですか?」からの多数決は、解決を産みません。

 現状は、ここで思考停止しています。

 

解決思考の提示はないのか

 解決思考を持つ人は、独自の行動を始めています。

 自分の生活を守る、仕事を守る、雇用を守る、困った人を支援する…。

 つまり、「公」の不手際を「私」がフォローしているんですね(笑)

 本来「私」ではできないことを「公」が行うんですけどね…。

 

まとめ(現場を離れた人間のたわごとです。すいません)

1,昭和の手法、平時の価値観で動いている印象を受ける場面がある

2,単純な二分法からの多数決で正解を求める手法は、対立・分断を生む

3,感染終息を目的とする「解決的論点」が提示されていない(ように感じる)

4,密を避け、換気・マスク・手洗いを習慣にするしか対策はないかも…。

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             (冬の越後湯沢です)

 

 

危機管理とは「もし」に備えること

テーマ「思い出すこと」

 危機管理の前提は「都合のよくない事実」を根拠に「最悪の未来」を想定すること。

 しかし「課題の存在を認めない人」がいると危機管理の前提は崩壊します。

 世の中には「平時に有能な人材」と「緊急時に有能な人材」とがいます。

 私が社会人になった頃、職場には両方の人材がいたのですが…

 ◆目次

公務員に転職して受けた研修内容から

公務員が17時に帰宅する理由

 問い「公務員の就業時間17時です。それはなぜかわかりますか」

 答え「非常時は24時間勤務になるからです」

 

緊急時に「定時」なし

 緊急時、公務員は「家族」より「住民」の安全が優先になります。

 だからこそ普段は17時で帰宅し、自分・家族・地域との時間を大切にするという知恵なんですね。

 帰宅したら「地域の一員」として行事に参加し、「地域の自助」に協力するのも大切でした。避難訓練とかも地域で行いますしね。

 

緊急時に有能な人とは

リリーフ投手など「チームの緊急時」に登場する人

 平時に評価されるのは、例えば「菅野投手(巨人)」のような「先発完投型の投手」

 しかし、「菅野投手」が打ち込まれれば緊急事態。そこで「リリーフ投手」の出番になります。

 この「リリーフ」が「緊急時に有能な人」。

 野手だと「増田選手(巨人)」のように「チームの緊急時」に登場する人。

 

緊急時に有能な人材は「スタメン、レギュラー」ではない

 チーム内では「補欠・二軍・アンダー、トレード・リストラ候補」という評価。

 企業・役所では「余剰人員」(あの人も昔は活躍した時もあったんだけどねぇ…)。

 この「余剰人員」を抱える余裕のない組織、或いは「余剰人員としか評価できない組織」は、緊急時の対応に苦労することになります。

 

時を経て、危機管理の余裕がなくなる…

公務員の定数減(行政改革市町村合併、民営化…

 定数減によって「失ったもの」は二つあります。

 一つは、多忙化が進んで帰宅時間が遅くなり、「家族や地域との時間」がなくなり、「地域の自助」に参加することができなくなったこと。

 もう一つは「緊急時に有能な人材」です。

 

人材がいなければ、緊急対応が外部委託に

 例えば「10万円の支給」を外部委託した自治体もあります。

 事務作業を効率化したくても人材がいない…というわけで外部委託になります。

 批判ではありません。通常業務をしつつ、素早い支給を実現する最適解は「外部委託」だと思います。

 で、費用はどこから?(笑)

 

まとめ 

1,危機管理を理解できる人が組織から減ってきている

2,危機管理を理解できる組織も減っている

3,危機管理が機能しない状況は「人災」の場合もある

4,平時の価値観、緊急時の価値観、それぞれの重要性を理解し使い分けましょう

 

 人口減、少子高齢化、科学の進歩を背景とした社会変化が進んでいます。

 温暖化による気候変動も大きく、毎年日本のどこかで災害があります。

 危機管理に適性を持つ人材を大事にして欲しいと思います。

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       (旧制松本高等学校の校舎にて)

新型コロナが可視化した課題

テーマ「新型コロナの日々に」

 災害は「社会課題」を可視化します。

 今日が月命日でもある東日本大震災が代表的なもの。

 災害復旧には「社会課題」の解決も必要で、それ故に「復興」という言葉が使われたと言えます。新型コロナも同じですね…。

◆目次(新型コロナの終息を阻むもの)

課題の存在を認めない人がいる

現場には「課題解決」のスペシャリストがいるはずですが…

 課題解決が進まないのは「課題の存在を認めない人」の存在。

 例えば「人口減少」という課題を認めない人っているんです(笑)。

 「何で人口が減るのだ」とそもそも論から始まり、「何で今になって言い出すのだ」と責任論に進みます。

 というわけで「人口減少という課題解決・対応・幸福な街づくり」は、公的な仕事・議論になりません。

 場当たり的な対処療法か、他の地域がやっている方策やイベントをコピーするくらいしかできないのです。

 

新型コロナでも同じような現象を感じます

 未知な情報・不利な状況を「自分を否定するもの」と認知して、拒否する人っています。

 このタイプの人が「上司」「オピニオンリーダー」だと、解決には向かいません。

 まず、有能な人から順番に「退職・転職・異動」を考え始めます。

 また「オリンピック中止のシュミレーション」はこっそりすることになります。

  

大きな概念が困っている人の救済のじゃまをする

赤ひげ診療譚山本周五郎)」では…

 通称「赤ひげ」は、貧乏な人に無料で診療しますが、大名にはとんでもない高額の治療費を請求します。

 これは「平等・公平という大きな概念」に反しますね(笑)。

 しかし、「患者の地位・身分・経済力に関係なく治療を行う」という観点では「医師としての社会的責任(医療を全ての人に届ける)」を果たしています。

 学校の先生も「数学のわかない子供」に手をかける、「美術の才能がある子供に高度な助言をする」ことがあります。個々への対応ができる良い先生です。

 しかし「平等・公平ではない。特定の生徒にひいきをする」と指摘され、処分されることがあります。

 

新型コロナでも同じような現象がある

 困っているところに支援しようとすると「不公平だ」「平等の原則に反する」という反論が出ます。

 例えば「10万円の一律配布」で「富裕層には配布すべきではない」という論点がありました。議論のために実施が遅くなる、配布しても「使うことに罪悪感」を感じて貯め込んでしまうなどの現象が生じました。

 つまり「大きな概念や正義感」は「困っている人に届ける」「お金を回す」という本来の目的の達成度を低下させることがあるのです。

 「困っている人を救済すること」で「平等・公平な社会を実現する」はずですが…。

 「平等・公平という大きな概念や正義感」が先になると「困っている人は自己責任」になります。

 これが今の日本社会と、自粛警察かもしれません。

 

新型コロナに「ボランティア」はない

ボランティアに感謝

 自然災害の場合、まず「自衛隊保安庁・警察・消防・病院」などの公的インフラが「救助・救援・支援」を実施し、一定の段階を過ぎると「地元住民による復旧」にシフトしていきます。

 このシフトチェンジの段階で「ボランティアの支援」が入ります。

 ボランティアの活動は、地元住民だけでは不足する「マンパワー」と、「公的な支援が難しい困りごと」の解決を導きます。本当に感謝です。

 

新型コロナはボランティアでは対応できない

 医療の現場は、専門家しか入れません。教育・介護・福祉の現場も以下同文。

 そもそも感染症ですから、人の動きは最小限度に留めることが優先。

 ですから、自然災害のような「ボランティア」の動員ができません   

 終息が見えず、どんなに疲れていても、最初から最後まで専門家だけでやり切るしかないんですね…。申し訳ないです。

 

まとめ

1,「新型コロナ」という課題の存在を認める

2,「困っている人を救済する」という視点の優先

3,「マンパワーを増やす以外」の支援策

4,「感染は自己責任~自粛警察」の正義感から離れる 

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         (昔の行きつけのお店の「コムタン」です)